2009年3月1日日曜日

流転の王妃の昭和史:まえがき&あとがき:愛新覚羅浩


● 2003/11


 「まえがき」から。


 日本の立春に当たる二月初旬に春節と呼ばれる旧正月の季節がやってきます。
 春節から一か月あまり経った三月十六日に私は七十歳の誕生日を迎えました。
 中国では六十歳、七十歳、八十歳と十年の節目ごとに最大なお祝いをする慣わしがあります。
 夫溥傑も一か月遅れの四月十六日には七十七歳の誕生日を迎えます。
 そこで皆様が、ふたり一緒の祝賀パーテイを開いてくださったわけです。
 当日、大宴会場には八つの大きな丸テーブルを囲んで、八十人ほどのお客様にお集まりいただきました。
 そのうちの一部は----日本の方たちで、それに親類や友人が出席、私どもの誕生日を祝ってくださいました。

 ふだん私は夫以外と日本語を話す機会がほとんどありません。
 こうして、日本語のざわめきを耳にするだけで、懐かしく、うれしく感じられます。
 その気持ちが、ネコをかぶっておとなくし座っていても、表情におのずと現れるのでしょう。
 それだけではありません。
 昭和12年、愛親覚羅溥儀氏の弟であった溥傑と結婚して以来、絶え間ない風雪にさらされつづけてきた私にとって、こうして夫婦そろって北京で静かな余生を送り、皆さまに祝っていただけることが、いまだ夢のように思えるのです。

 あの日も、春先の肌寒い日でした。
 昭和29年、当時私は終戦で夫と別れ別れになったまま日本に引き揚げ、二人の娘とともに実家の嵯峨家に身を寄せていましたが、突然撫淳順から中国赤十字社を通じて夫の葉書が舞い込み、私たち母子を驚喜させました。
 すでに、夫と別れてから十年目に入っていました。
 終戦後ソ連に抑留され、長い間生死もわからなかった夫ですが、ようやく中国で無事生きていることが確認されたのです。
 世間からは戦時下の政略結婚と見られることが多かった私たちです。
 満州国が幻のように消え去って久しいあのとき、初めて夫たちの行方がはっきりわかったのでした。

 歳月が経つのは早いものです。
 私がいまは亡き周恩来総理の温かい配慮で中国に住む夫の許に帰ることができたのは、昭和36年のことでした。
 16年ぶりで夫と再会できた私は、以来、北京の一市民として何不自由ない暮らしを送っています。




 「あとがき」より。


 北京市護国寺街の自宅に主婦と生活社から手紙が届いたのは、一昨年の秋のことでした。
 そのときあらためて、時の流れの早いのに驚いたものです。
 私の旧著「流転の王妃」が出版され、日本のたくさんの方々に読んでいただいた頃から早くも23年、新しく生まれ変わった中国に16年ぶりに帰国して夫と再会してからも21年の歳月が過ぎ去っていたのに気がつきました。
 手紙の主旨は、「流転の王妃」に含まれる私の半生を、現代の若い読者に向けて書き直して、新たに新中国へ帰ってから現在までのことを書き加えて一冊にまとめていただけないかというものでした。
 私にとって身に余る大仕事ですが、お引き受けしなければならないと思いました。
 私も今年で日本流には古希と呼ばれる七十歳を迎え、書くならこれが最後の機会だと思われました。
 嵯峨公爵家の長女として生まれ、満ち足りた幸せのうちに娘時代をすごした私が、日満親善という美名に飾られ、愛親覚羅溥儀氏の弟、溥傑と結婚して以来、思いもかけない試練に遭遇し、苦難の道を歩むこととなりました。
 
 北京にいると、日本のざわめきや、うなぎ、日本そば、お魚の干物、抹茶のアイスクリームなどの日本の味が懐かしく思え、日本に来れば、中国の人たちの大らかな人柄や豊かな風土、食べ物が恋しくなって、一日も早く我が家に戻りたくなる私です。
 夫の許に嫁いでから半世紀近い時の流れは、中日二つの国を渾然一体として、まるで一つの国に溶け合わせてしまったかのようです。
 夫は敗戦後、ソ連での抑留につづいて、中国の撫順やハルビンの戦犯管理所での長い生活を経て、14年目に特赦となり北京に戻りました。

  私を中国に呼び戻し、夫とともに平和の日々を送る全ての準備を整えてくださった、故周恩来総理を始めとして、-------中国の皆様、資料を提供し、取 材に協力していただいた実家の嵯峨家の妹たち、遠く北京まで連絡の労をとってくださり、長い時間をかけて執筆をバックアップしてくださった主婦と生活社出 版本部の皆さま方に心から感謝を申しあげます。

 建国三十五周年 「国慶節」を目前にした北京にて    
                          愛親覚羅 浩
』 


 この作品は昭和59年11月 主婦と生活社より「流転の王妃の昭和史」として刊行された。






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