2009年3月21日土曜日

:「あの世」について


● 2005/12



 ぼくは子供の頃からずっと「あの世」に興味を持ってきた。
 そして大人になってからも、日本や世界各国のあの世のことを調べて何百点という絵にしてきた。
 さんざん調査をし、取材旅行もし、僧侶や学者たちに話を聞いてみたりもした。 
 しかし、これだけ調べての死の向こうにはいったい何があるのか?、それは未だにつかめないのである。
 わからない、というわけらしい。


 以前、世界各地の「あの世」を調べて、一冊の本にまとめたことがある。
 どこの民族の言い伝えでも、死後いきなり何もしないで天国へいけるものはわずかなようで、「あの世」で安定した生活を得るためには、「かなりの努力がいる」と考えられていたことがよくわかった。
 「この世」でも、なかなかくつろぐことができないのに、「あの世」でもなかなか安住の場所は見い出せないらしい。


 僕はこの軍隊が終わったら、坊主になろうと思って、日曜日の外出のとき、岩波文庫の「仏説四十二章経」なるものを買って読んだ。
 その中には、眠りを「睡魔」と称し、いかにも眠らないのが美徳みたいに書いてあるので、極めて不快になった。
 こんどは新約聖書をひらいてみた。
 「色情を抱きて女をみるものは、その目をえぐりて捨てよ」
 とあり、これも驚いてやめた。
 いくら目があっても足りないと思った。
 次いで「論語」。
 「男女七歳にして、席を同じゅうせず」
 という不快な文字からはじまって
 「四十にして惑わず」
 といった鼻持ちならぬ自信満々。
 これも僕と意見を異にしていた。
 いずれも「生きることをシンドクする連中」だと思った。


 ヨーロッパ人が、原始人とか野蛮人とか言うからおかしくなるんですよ。
 人間の知恵でネジ曲げ、霊から遠くなる。
 宗教の背景にはキリスト教でも仏教でも霊がいるわけだけれども、人間が救いや癒しをセッカチに求めるから、ああやっていろんな宗教ができる。
 みんな、エゴイストです。
 この前も京都で「世界宗教会議」ってのがあって、いろいろ慈悲深い崇高な偉い人が来るから、話がまとまるかと思ったら、「一つもまとまらなかった」


 世界三大宗教の中でイスラム教は、
 「片手にコーラン、片手に剣」
 というように実にはっきりした宗教だ。
 生前、アラーの教えを熱心に守り、コーランを生活のルールとしてきた者は、アラーの玉座の近くに召され、酒池肉林、美女に囲まれて美食と美酒の毎日が送れる。
 真の信者には

 四千人の処女と、
 八千人の夫人、
 五百人の天女が、

たった一人に与えられるというのだから、男なら夢のような世界だ。
 だから熱烈な信者は死ぬのはぜんぜん怖くない。
 だから爆死するなんてことは、いとも簡単にやってのけるのだ。


 死後の世界について。
 理屈ではわからん世界ですから。
 だから妖怪にもてあそばれながら霊的な訓練をして、「死後も自分は存在する」っていうような考え方になると、なんとなくおだやかな感じになりますよねえ。
 あの世もおだやかになるかもわからん。


 エトルリアのネクロポリス=死者の街に行って
 死んでからも部屋があって炊事もできるし、トイレも寝室もある。
 あそこに行ってから、半分死んだ人間になって生きればよい、とわかりました。
 「死んでから何でもできる」
 わけですから、やたらと本を買いあさる必要もないんです。
 死人として生を楽しめば、倍楽しめます。






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