2009年3月9日月曜日

:父の思い出(2)


● 1991/10[1974/06]



 敗戦で離散したわが家のメンバーが、再び顔を揃えたのは私が小学校5年生の夏であった。
 医者で開業できれば、何とかやってゆける。
 しかし、父の免状は満州国のもので、内地では通用しないものだった。
 満州での医者不足を解決するため、いわゆる「代診」の経験のあるものを集めて、集中授業をして短期間に育てた医者だから、内地では開業まかりならぬということである。
 その代わり、国家試験をパスしたら正規の免状を渡すという法律ができていた。

 さあ、それからまた勉強である。
 父は知人から医学の本を借り集め、また基礎からやり直しを始めた。
 これは残酷極まりないテストである。
 三十代半ばを越した一人前の医者が基礎的学問に立ち戻るほど辛いことはない。
 私だって、今、大学の基礎課程の勉強をしろと言われたら、逃げ出すかもしれない。
 しかも、自分の専門だけでなく、神経科から外科に至るまでやり直し、暗記しなければならぬのである。

 父は本を抱えて、人里はなれた山の中にこもってしまった。
 ---よし、それなら。
 と、私たちは奮起した。
 幼い弟はともかくとして、母と兄と私が団結して、生活費を稼がねばならぬ。
 私たちは、金になることならなんでもやろうと決心した。

 スッポンが売られていたのには参った。
 私は辛くて泣いた。
 これが貧乏なんだ、日ごろは見ないように触れないようにしているが、「これが貧乏なんだ」。
 私はざらざらした現実の素肌に触れてしまったのである。
 とめどもなくしゃくり上げ、生きているのがなさけなかった。
 でも結局、私たちは屈しなかった。
 
 父は毎朝、山へ出掛け、夕刻家へ帰ってくる。
 山といっても、家を借りたり、お寺の一室にこもったりしているのではなかった。
 近くの山に壊れかけたお堂がある。
 その軒先に腰を掛けて、声を出して本を読むのである。
 若いうち、二十代の半ばまでなら、目で通読しただけで記憶できる。
 だが歳をとると、音読しなければ意味がつかめなくなるので。
 記憶するとなると、何度も何度も唱えなければならぬ。

 一番苦しかったのは父であったろう。
 息子たちを働かせ、しかも自分は、金を使って勉強している。
 世間の常識とはまったく逆である。
 その精神的苦痛は想像にあまりある。
 普通なら、
 「ついに俺には達成できなかった。だから息子たちよ、お前たちが存分に勉強してくれ」
 と、言うはずである。
 これが現在の教育ママや教育パパの発想である。
 が、これほど「自堕落な、愚劣な発想」があるだろうか。

 私はいくつになっても、ひたむきに生きる人を尊敬する。
 じりじりと夢へ這っていく人を。
 ムスコの夢を託すというのは、生活の放棄であり、甘えである。
 その心根でムスコや娘に楽をさせても、ロクな結果が生まれるものか。
 現状にふさわしいところで、常に前を向いて歩くことこそ大切なのである。
 私は、自分の父が、家庭を一切省みずに勉強したことを誇りたいくらいだ。

 その生活にもやがて終止符を打つときがきた。
 父は、私たちが稼いだ金を根こそぎ持って、東京へと試験を受けにいったのである。

 試験から帰った父は、

 赤門から入ってなあ、偉い先生の口頭試問を受けた。
 もう何と答えたか、あがっちまってわからなかったから、どうも今年は駄目だろうが、さすがに天下の東大だった。
 すごいう建物がこうずらりと並んでいたよ。
 それで帰る時、わざと遠回りして赤門から出てやった。
 な、これから「バカにするなよ」、これでも「赤門出」なのだから。
」 
 と、土産話をして、しばらくぼうっつとして日を過ごした。

 それから私は赤門とやらの夢をみるようになった。
 あの豪気な父をすくませてしまった赤門が、日ごと頭の中で大きくなり、丸ビルよりでっかい、きらびやかな建造物になった。
 ---よし、その大学へ行こう。
 私はそう決心したが、後で実際に通うようになったら、古くてしょぼくれた門に過ぎなかった。

 両親と私は、弟を連れ、祖父の畑で山芋掘りをしていた。
 祖父は田畑をたくさん持っていたが、米一粒援助してくれなかった。
 家を継いだ次男に気兼ねして、山芋ならばと言った。
 畑のまわりにある林をさがして山芋を掘れ、というのだ。
 もちろん栽培したものではなく、自然がはぐくんだ芋である。

 留守番をしていた兄が、電報をひらひらさせながら駆けてきた。
 「ゴウカク オメデトウ」
 私たちは芋畑をころげ回った。
 母はへたへたと坐りこんでしまったが、私は父とすもうをとった。
 「このヤロウ」
 「さあこい」
 私は何度も何度も父を投げとばし、大地に叩きつけた。

 その年、満州出身の」医師は八十数名受験したというが、国家試験に合格したのは、たった三名だった。





 なんとも言葉にならない「オヤジ」ですね。
 今どきのことばなら、キチガイですね。
 でも、キチガイのほうが、人生を見るに面白い。
 ときどき、そいう人が己が人生を振り返るにスパイスになっていることがよくある。



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