2009年3月21日土曜日

本日の水木サン:水木しげる


● 2005/12



編者あとがき

 人生におけるけたはずれの経験値
 または、普通の人としての水木しげる

 言い古されたことではあるが、水木しげるは第日本帝国陸軍の万年二等兵としてニューギニア最前線で腕を一本なくし、敗戦後は紙芝居描きや貸本漫画家としてしぶとく生き延びてきた人である。
 高度経済成長とともに売れっ子漫画家になり、バブル経済、バブルの崩壊と、昭和から平成にかけての時代をつぶさに見、風刺してきた。
 こんな人生、送ろうと思ったってなかなか送れない。
 その結果、水木さんが得たのが、「人生におけるけたはずれの経験値」である。 

 そこで、これまで僕が聞いたり読んだりしてきた水木さんの珠玉の言葉を編もうと思い立った。
 それに日付をつければ
 「ふむふむ、本日の水木さんはと‥‥‥、ふふふふふふ」
 みたいな感じで楽しめるじゃないか。
 そんなわけで、自分の好きな水木さんの言葉をパソコンでパタパタと打ち込むという、きわめて幸福な時間を持つことができた。

 僕は1994年に某誌で「水木原理主義者」(主な活動は、水木しげるのマンガをもって南の島でゴロゴロすること)宣言を行った「壊れた人間」なので、事あるごとに「水木しげるがいかに凄いか」ということを力説してきた。
 今回は趣向を変えて、「水木しげるがいかに普通の人か」という話をしてみたいと思う。

 僕は水木さんと海外に行くことが多く、しかもどういうわけか少数民族のところに行くことが多い。
 水木さんは妖怪の絵を描くし、しかも紙は白くて腕は一本しかないので、シャーマンみたいに思われるらしい。
 だから「死後の世界はどうなったいるのか」、なんてよく聞かれるのだが、水木さんはこれまで同じ答えを述べたことがない。
 つまり毎回言っていることが違うのだ。
 これを「毎回、人を見て答えを変えるとは何たる天才」などと考えるのは過大評価というもので、要するに「そんなことわかるわけねえじゃねえか、いかに水木しげるだって」ということなのである。
 はっきり言って、死後の世界について理論的に滔々と語られたらかえって気持ちが悪い。
 というわけで、死後の世界に関するさまざまな見解は、その多様性のままに本書に収められることになった。

 日本では水木しげるさんは「妖怪仙人」のような見られ方をしているので、一方で何か悟ったような存在であることが求められ、一方でひじょうに妖怪的な言動や役割を求められる。
 彼は時と場合に応じてその二つを演じ分けていて、僕はいつも「サービス精神が豊かな人だな」と感嘆する。
 ところが妖怪的にも仙人的にもなれないジャンルがあって、それは何かというと「女性に関する事柄」なのである。

 水木さんが国内でやばいことをやるとすぐバレる。
 だから海外に言ったらさぞかし羽根を伸ばすのかというと、そんなことは全然ない。
 かといって女性に対して達観しているかというと、まったく正反対である。
 たいてい男ばかりの旅となるので、女性に関するエゲツない話は国内にいるときの10倍くらいになる。
 だが、きわめて実行力に乏しいのだ(つまり口だけ)。



 狒々ジイになって女性に襲いかかることもなければ、仙人のように特殊な術を施すでもない。
 実に慎重。
 せいぜい美人の隣にすわってツーショットを要求するくらいのものである。
 他のことにはあれほど大胆な人が、どうしてこのジャンルだとこれほど普通になるのかと、僕は不思議でならないのだ。



 水木さんにはそういう欲求は人一倍あるんだろうけど(それは本書を読めばよくわかる)、守護霊が許してくれないのかもしれない。

 「のんのんばあの霊」が、もう少しというところで
 「しげーさん、そんなことしちゃあかん」
 と言うのかもしれない。

 そんなわけで本書には、水木しげるの性に対する並々ならぬ関心と、それを実行しようとしてもまるでうまくいかないというぼやきが収められている。
 世の大半の男性の共感を誘うことは間違いない。

 以上、「水木しげるがいかに普通の人か」というお話でした。








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