2009年3月5日木曜日

:気にいった文章をリストする


● 1994/05



 私には仰鬱の原因より、それに耐えて生きるための処理に仕方に興味がある。

 無駄になった時間は毒をもつ。

 私は、芸術の仕事は、自分と神との対話のようなものであり、相剋よりむしろ解決をしめさなくてはならないと思うのだ。
 そして今、私は生活のなかの地獄を支配すべく、闇のすべてを明るみに出そうと力を尽くしている。
 もう大人になってもよい時なのだから。
 
 六十近くにもなって、人は自分を大きく変えることができるだろうか?
 私はいったい、意識のずっと下で生まれた怒りや敵意や相反する感情などを統制することができるだろうか?

 自分が小説を書いたのは、自分が「どう考えたか」を知るためであり、詩を書いたのは自分が「どう感じたか」を知るためだった。

 私には、人を開化させるものとしての、もっとも深い意味での文化というものが、ごく薄いベニヤの外板にすぎないと感じられたのである。
 何かの上に張りつけられ、表面だけ煉瓦の見せかけをもった近頃の家屋のように。

 ふつうの職業をもっている人には、外側から課せられたパターンをいっさいもたない一日を秩序づけてゆくという問題がどんなものか、わかりっこないだろう。

 孤独とは、存在するための空間をもつことである。

 われわれは、霊魂を創造していると信じられているときはじめて、人生に意味を見出すことができる。
 しかし、それをいった信じたなら----私はそう信じるし、常にそう信じてきたのだが----私の行為で意味をもたぬものはないし、私の苦しみで、創造の種を宿さぬものはない。

 私自身の信条をいえば、真摯な作家ならば、自己自身を体験の道具とみるということである。
 一私人としてどう生きるかは、作品のなかに親しく組みこまざるをえない。
 もし、私たちが「人間の条件」を理解しようとするなら、--------人間としても芸術家としても、私たちはたがいについて知りうるかぎりのことをしらなくてはならない。

 結局、私たちは生きてゆくことで自分の顔を作ってゆく。

 ひっきょう、私が果たそうとしていたのは「当たりがよく、静かで、しかも騒々しい」言い方で、急進的なことを、ショックを与えずに表現することだったと見られるようになるかもしれない。

 対象は、ほとんど何でもよい。
 花にせよ石にせよ木の皮にせよ、草、雪あるいは雲にせよ、一つのものを絶対の関心で長い間見つめていると、天啓に似たものが得られると。
 何ものかが「授けられる」のであり、その何ものかとは、常に自己の外にある現実なのだ。
 奇妙なことだが、「笑い」も同じ効果を持つ。
 瞬間であれ、私たちは無執着を達成したときにはじめて笑えるからだ。

 ただ「品位ある人間」として行動するだけのためにさえ、われわれは自分を、英雄のようにかんがえなくてはならないのだ。

 私は自問した。
 「人生にお前は何をきたいするのか?」と。
 私はそれをみとめてはっつとしたのだけれだ、答えは
 「まさに私の今享受しているもの、けれど、それをよいバランスで保ち----しかし、いまよりよほどうまく処理すること」
 だったのである。

 破壊的なのは、忍耐のなさであり、性急さであり、あまりに早く、あまりに多くを期待し過ぎること。
 
 私はどこかで、われわれは「われわれ自身の神話をつくらなくてはならない」と言った。
 その意味は--------

 男が老齢になると、自己自身を完成させるために、家族やなりわいを捨てさえして、「聖」者あるいは放浪の人になるというヒンズー教の思想の真実に、私はますますうたれるようになった。
 それは、自然から、そして純粋な思索から魂を引き離してきたものすべてを、「忘れるための時間」である。

 私が始終犯す「人間的な誤り」は、何事かを「すませてしまう」とか、回答を得るとか、片づけるために、急ぎすぎることだった‥‥。
 こうして「強制された回答」は、行き過ぎたり、与え過ぎたり、十分選択しないでそれを行うことになりがちだったのである。

 約束が一つでもあると、たとえそれが午後からでも、時間の質を変えてしまう。
 気にかかりすぎるのだ。
 深層心理から湧き出てくるものを受け入れる空間がない。

 われわれは波瀾や変化をおそれ、苦痛に感じられることについて語ることを怖れる。
 苦悩は往々にして失敗と感じられるが、実はそれは成長への入り口なのである。

 私がこの日記を一年間はどうしても続けなくてはならないと思ったのは、『夢見つつ深く植えよ』が偽りの楽園の神話を作り出した、と思うからである。
 実のところ、私は自分の役目は、現実にできるだけ近づき、現実を受け入れるために、私自身が築いたものを含めて、神話を静かに破壊していくことだと思っている。

 私の生涯の間に、過酷な真実と対決しようとしては、心に慰めを与える神話が一つ一つ破壊されてゆくのを見てきた。
 私たちは文明化した人間が、動物の中でもっとも残酷なものだということを受け入れなくてはならなかった。

 私の欠点もまた、過剰にある。
 私自身も、自分の求めているものが、何かしらぬまま感情のうえの要求をしてきた。
 私もまた、誰かの関心を求めているときに、自分が何かを与えていると錯覚していた。

 「自己表現に巧み」なほど、言葉はより危険になる。
 真実を伝えるためには、できるだけ正確で慎重でなくてはならない。
 何年も前、似たような問題のために短期間通ったある精神科医がいった言葉に私が悩まされているのはいうまでもない。
 私を見た彼女はこういったのだ。
 「人は、あなたになりたいと思い、なれないと悟ったときには、あなたを殺すのです」と。






 「アメリカン的憂鬱」といった朗らかな雰囲気が漂う文章の数々がいかにも楽しい。

 まずもろもろに定義をあたえ、その定義から自分の立場を作りだす。
 自分で法律を作り、その法律に違反している他国にクレームをつけるアメリカンスタイルと何か似通っている。

 「ピューリタン的ゴーマン主義」
 この言葉がピッタリかな。

 なにかに「すがりつきたい」、それを声高に表現しているのだが、そのすがりつきたいものがあまりにも空虚なため、言葉という粘土を使って四苦八苦して生み出そうとしている、そんな風。

 「当たりがよく、静かで、しかも騒々しい」言い方、とはまことに当を得た表現であるのだが、本人もそう思っていたとは。

 自分で舞台を作り、自分でセリフをつくり、自分で演じて、すごぶる楽しんでいる。
 こちらにはまるで伝わってこないのだが。
 でもそれでいいのだろう。
 
 自然の描写は繊細である。
 が、そのあとすぐに対する自分の意見を述べようとする。
 あたかも自然を自己の意識の下に屈服させようとするがごとく。
 自然は自然として眺めていればいればいいのに。
 アアア、もったいない、と思ってしまう。


 わかることは、私は日本人であり、彼女はアメリカ人だということ。
 感性というものが、明らかに違うということ。
 若い人にとって、この本は魅力的であり幻惑的であるが、彼女と同年代以上の者にとっては、さほどに納得できる衝撃を与えてはくれない。
 言葉の先行する本であり、その言葉を十分こなしていないと、振り回される本である。

 ときにはこういうものに振り回されるのも一つの経験であろう。
 ふりまわされて、何故、どうしてと内省したとき、自分が見えてくるということもあるかもしれない。
 お勧めの一冊である。



【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】



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