● 1976/06[1972/05]
『
そげんかことして働かにゃならんじゃったもんで、うちらは、学校というところにゃ一日も上がらんじゃった。
兄さんも、姉さんも、うちも行っとらん。
もっとも、学校さ行かんとは、何もうちらの家ばかりじゃなか。
今とちごうてあの自分は、うちらの村じゃ、学校に上がらん子どもが仰山おって、ちっとも珍しかことではなかったもね。
ただ、学校さに上がらんおかげで、字ばひと字も読むことがでけん。
おまえら若い者(もん)はよかね、ほんなこて。
本でも新聞でもいくらでん読めるし、どこへでも手紙を書けるとじゃけんな。
うちらは、明き盲(めくら)ちうもんじゃけん、外国に行っておったあいだも、病気もせんで元気でおるぞという便りひとつ、自分ではよう書けはせん。
国へ金ば送るときでも、いちいち他人さまに頼んで書いてもろうて、手紙が来れば来るで読んでもらわんばならん。
おまえには分からんじゃろうが、そりゃ、ほんこつ口惜しいことじゃぞ。
つい余分なおしゃべりしてしもうたが、兄妹三人骨ば粉にして働いても、子どみの稼ぎはおとなにゃ敵(かな)い申さん。
冬になるとじゃが、麦櫃(しねびつ)も芋の桶も空っぽになって、麦のお粥さんどころか、芋の汁さえ啜れん日が続いたとじゃもね。
畳ちゅうもんが無かったけん、山で枯れ枝拾うてきて火だけは焚いたが、兄妹三人空き腹ばかかえて板敷に座っとると、頭に浮かんでくるとは、食いもんのことばかりだったぞい。
外国へ行ってお娼売(しょうばい)したもんは、いろんな目に会うて、果ては行方(ゆくがた)知れずになってしまうことも多いでな、全部のもんの消息は知らん。
うちが外国へ行くことになったのはな、ちょうど十になった年じゃ。
うちら子どみばっかしで借り畑して暮らしおっても、一向にどうにもならん。
矢須吉兄(あぼ)さんもだんだん若い衆(わかいし)になったばって、一枚の田畑を持たん男は一人前にあつかわれんし、嫁ごのきてもなか。
それじゃあんまり兄(あぼ)さんが可哀そうじゃけん、うちは、心(しん)から何とかして兄さんを男にしてやらんばいかんと思うとった。
じゃけん、うちが外国さん行くことにしたよ。
長崎からボルネオまでの旅は、おそろしゅう遠かったぞい。
太郎造親方がな、それまでうちらにもひどう優しかし、お父っさんおっ母さんにも親切じゃった親方どんがな、火ごつに怒り猛ってな、
「帰ろうと思うたら、どげなとこからでん帰られる。泣くとばやめんか!」
とどなりつけた。
いままでの親方が仏様なら、打って変わって、閻魔様のごたる親方じゃ。
うちらは、すっかり恐ろしゅうなって、また前のように口ばつぐんで、長崎から門司への汽車、門司から香港への汽船の旅ば続けたとたい。
そげな恐ろしい旅じゃったけど、うちら子ども衆(し)だったしな、道中は面白かと思うこともひとつやふたつじゃなかった。
うちら生まれてから十になるまで、村から一歩も外へ出たことがなかったもんだし、崎津の天主堂さんばながめるとも初めてだったくらいじゃから、船も、汽車も、宿屋も、瓦葺の屋根も、何もかも珍しかった。
宿屋で出してくれるもんが、朝、昼、晩と真っ白か「米ンめし」じゃったとにゃ、うちら三人とも、三度三度こげんな「米のまんま」食うて罰の当りはせんどかしらん---と、しばらくは箸もようつけられんじゃったことを憶えとる。
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うちは勇治(注:息子)のこと、少しも恨みがましゅうなんて思っとらん。
勇治の嫁は、6年か7年になるとに、まだいっぺんも顔見せに来んばかりか、手紙一本よこさんけん、うちはあまり気にいっとらんが、うちら年寄りは先に三途の川ばわたって行くもんたい。
若い衆(わかいし)が、自分らの思いどうりに暮らしとるなら、それが何よりの太平で、年寄りはがまんして生きとればよか。
お女郎商売やっとったうちのようなもんが、おっ母さんでございという顔でそばにおらんほうが、嫁との暮らしがうまく行くとじゃけん、うちは、ここへ帰ってきて良かったと思うとる。
勇治と嫁とのあいだには、孫がふたアりおって、顔みたいと思わん日はないが、いつになったら望みが叶うもんかわからん。
孫の顔も見られんで一人でおるのは淋しいが、そのほうが勇治ににも嫁にもよかとじゃんけん、うちは誰にも何も言わんでがまんしとると。
そうして毎朝、お大師様とお天道様と仏様とに、勇治の一家じゅうが風邪もひかんで達者でありますように、うちは本気でお願いば申しとるとね。
なに、勇治から毎月いくら送って貰うとるんかとか。
毎月、4千円送って貰っとる。
現金封筒に入れて送ってくるるで、判コばついて受け取っとる。
勇治もたいへんじゃろが、うちも、これ送ってもらわにゃどうにもならんもんね。
4千円の銭でひと月暮らすのは、なかなか骨が折れるとよ。
米を買うて食うたら、じき無うなってしまうけん、おまえにも食べてもろうとるような麦のままじゃ。
勇治からの銭が遅れて、麦もないよう食べきらんときは、唐芋と決まっとる。
いま時分、こげんか麦の多か飯ば炊いとるのは、この村でもうちとこだけと違うか。
うちがこれから幾年生きるかわからんが、仏さんのとこ行くまでずうっとこのまんまの暮らしじゃろ。
ばってなア、小まんか時分、お父っさんに死なれ、おっ母さんに去られて、矢須吉兄(あぼ)さんと、ヨシどんとうちと兄妹三人、なあにも食べられんで水ばっか飲んでふるえとった日を思うと、今は麦でも芋でも三度三度食べらるるとじゃけん、殿様のごたる暮らしじゃがね。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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