● 1994/01
『
イントロダクション[きみは貧乏でもいい]
貧乏でなくなった時、男はもう若くはない、ということである。
私の話は、かなりヘンなのである。
若い男が貧乏なのは正しいが、若い男でバカだったら、それはもうただのバカなんだから、「あんまりでかい顔をして生きてんじゃないよ」、ということである。
貧乏人は消費者にはなれないのだ。
所詮その金の落とし先がコンビニでしかないような貧乏人でも、
”平気で金を使う体制にある貧乏人”と
”金を使うのにあんまり積極的でない貧乏人”との
二種類があるのだということも、知っておこう。
現在の日本には、実のところあんまり”貧乏人”というものがいなくなった。
現代日本の貧乏人とは、
「”じぶんじゃ貧乏じゃないぞ”ということを他人にアピールするために、最も多くのお金を使う人間」
だったりもする。
つまり、「現代エンゲル係数」とは、家計に食費の占める割合ではなく、家計に占める
「ミエ出費の割合」
なのだ、ということである。
若いもんはつまらない金を使わずに、ただの「貧乏」をやっていれば、それでいいのである。
現代の学生はバカだから、貧乏なくせに、やたら広告に金をかける。
つまりそれは、
「”自分は貧乏だ”ということをごまかすために金を使う」
ということである。
どう考えても、若い女は金持ちである。
貧乏人の娘のくせに、平気で金持ちヅラが出来る。
若い女というものは、自分ン家の都合がどうであろうと、やっぱり「私は貧乏です」という顔やカッコをして歩き辛いものなのだ。
それは一体なぜなんだろうか?
どうして若い男は貧乏に引きづられやすく、若い女は貧乏を拒絶したがるのか?
そこには本質的な断絶がある。つまり、
「若い男とは、本質的に”貧乏なもの”だが、若い女は”本質的に貧乏ではない”」
という、隠された事実があるのだということである。
なぜかというと、若い女は美しく着飾れないと、惨めになるような生き物だからである。
「美しい」というのは、だいたいのところ、金がかかる。
だもんだから、「美しい」ということが非常に重要な要素だった若い女は、人類の歴史の中で
「貧乏であってはならない」
という属性を育ててしまったのだ。
「貧乏」という問題は、「美しい」という]問題と大きくからんでいる。
今の世の中、
「食うや食わずの貧乏」
というのは、大きく後退してしまった。
だから、そういう貧乏を前提にしてきた社会主義国家は崩壊してしまった。
しかし、貧乏には、”それと別の貧乏”もあるんだ。
「貧乏でも自分には力があるから平気」と言うのが人間の強さというもので、これを捨てたら、人間おしまいである。
「若い男が貧乏であるということは、人類の歴史を貫く真実で、そして、このことこそが人類の未来を開くキーだからである」
だからこそ「”貧乏”という問題と”美しい”という問題は大きくからんでいる」のである。
「貧乏で食うものがなくて腹がへってたまらない」
という”情けない貧乏”はなくなった。
しかし、”貧乏なヤツ”というのはいる。
いまどき”ツギの当たった服を着ているヤツ”というのはいないが、しかし、
”着ているものが貧乏ったらしいヤツ”
というのは、歴然といる。
貧乏には
「最低レベルをクリアー出来ない」
という種類の貧乏と、もう一つ
「”よりよい”ということがどうしても達成出来ない」
という貧乏との二つがある。
つまり、「貧乏で食うものがなくて腹がへってたまらない」という
”量の貧乏”
が克服されても、その次ぎの段階では、新しく「ダサイのは嫌だ」という
”質の貧乏”
が登場するということなんだ。
貧乏には「パンが食えない」という段階の貧乏もあるが、その次に
「まずいパンなんか食いたくない」
という”ちょっと贅沢な貧乏”が登場するということだ。
問題の中心が、”量”から”質”に移るということだ。
そして、貧乏が、
「パンはあってもまずいパンしかない、というのは”とっても貧乏だ”」
という質の貧乏に移った時、貧乏の意味はゴッチャゴッチャの解釈にさらされて、”混迷”という事態が訪れる。
”量”だけで生きてきた人間には、”質”なんかが分からないんだ。
これはけっこう重要なことだぞ。
世の中には明らかに
「金がないからダサイという状態に陥っている人間」
と、それとは反対の
「金があるのにどーしよーもなくダサイ人間」
の、二種類がいる。
貧乏というのは、他との比較によって生まれる、相対的なものだ。
だから”最下級の貧乏”はなくなっても、”貧乏”自体はなくならない。
若い人間には劣等感(インフェリオリテイ・コンプレックス)はつきものだ。
まだなんにも出来ていないし、まだ何にも知らない。
知っていること、出来ることよりも、知らないこと、出来ないことのほうがずーっと多い。
自分の外にある”なにか”に刺激されて、
「ひょっとして、自分てまだ”貧乏”なのかな‥‥」
と思う、その疑心暗鬼状態が解消されなければ貧乏からは自由になれない。
』
「書評」から。
『
「貧乏は正しい!」 橋本治著
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~wakamori/essay/e016.htm
「若い男は本質的に貧乏である」というメッセージを伝えるこの本を今の「金持ち」の大学生は読んでくれるだろうか、タ イトルを見ただけで拒否反応を起こさないだろうか、この本の読書案内をわざわざ書いても意味がないのではないか。そんな思いで読書案内の原稿執筆を締め切 り間際まで延ばしているうちに、貧乏と若い男を結びつけるエピソードを耳にすることがたまたまあった。
そのエピソードは、著者の橋本と同じ団塊の世代の友人が話してくれたことである。
近く娘が結婚することになった友人は、最初は結婚にはまだ若すぎると感 じていたが、奥さんから
「私は当時大学院生の、お金も研究業績も将来の保障もない、若さだけがとりえのあなたと結婚したのよ」
と言われて、娘の結婚を認め る気になったと言っていた。
友人の奥さんの言葉に感心したり、自分が貧乏であることを自覚している若者がいまどれだけいるかな、と思ったりした。
著者はこの本の中で、
「一番重要なことは《若い男は本質的に貧乏である》という事実を自分のものとして受けとめることである」
と繰り返し語っている。
「若い男=貧乏という自分の前提」
を認めることによって、若者は「強くなれる」し、バブルがはじけた後の就職難とリストラの時代を生き抜くことができる。
「若い男=貧乏」ということは、人類の歴史を貫く「真実」であり、「人類の未来を開くキー」なのである。
しかし、現在の若い男が「自分は貧乏である」と受けとめることはなかなか困難である。
たくさんのブランド品やクルマや携帯電話などもっている現代の若者 の多くは、
「自分は貧乏じゃないぞ、ということを他人にアピールするための金、つまり、自分は貧乏だということをごまかすための広告費」
を無理して使って いるからである。
若者のこのような広告費の使用を中止することによって初めて、若い男=貧乏という自分の前提を受けとめることができる。
また、親の仕送り に頼って生活している大学生は貧乏ではないかもしれないが、そんな大学生は著者の定義によれば「若い男」とは呼びがたい。
親から離れずに、自分は若い男だ という顔などできないのである。
若い男とは、「貧乏でも自分には力があるから平気だ」という強さをもった存在である。
そうだとすれば、実際の若い男が中年 または老人であり、実際の中高年が若い男である、ということもたまにはあることになる。
著者は「若い男は本質的に貧乏である」という真理を認めたがらない現代日本の大学生にたいし、いくつかの説得材料を用意している。
著者によれば、性的に 成熟しているのにパートナーをもっていない若い男は、オナニーに象徴されるような本質的な貧乏を刻印されている。
著者のおもしろおかしな点は、このような 本質的貧乏を経験した若者とそのような経験を経過することなく性的成熟と同時にパートナーに恵まれた若者とを比較検討し、「貧乏は正しい」という命題か ら、
「切実じゃないくせに、テキトーに気持ちいいことに出会える機会」
が若者の成長プロセスを奪ってしまうことを、真剣に議論していることである。
これだけ説得してもまだ「若い男は本質的に貧乏である」という真理が分からないかもしれない今日の大学生にたいし、著者は
「貧乏とは、それ自体が利益を 生み出すような財産を持っていないことである」
と説明する。
たとえ年収が2000万円ある人でも、それがすべて労働の代償として会社からもらう給与だった ら、金持ちとはいえないのである。
金持ちとは、株や土地のような、それ自体が利益を生み出すような財産を持っている人間である。
しかし、金持ちにとって大 事なのは、それ自体が利益を生み出すような財産を増やすことだから、金持ちは極端な浪費をしないだろう、と著者は言っている。
ただ著者の金持ちの定義はやや常識的に過ぎるように思える。
著者らしく、おもしろおかしく真実に触れるような金持ち論の展開を今後に期待したい。
ところで、この本にたいするいちばんの批判者は女性ではないだろうか。
フェミニストのみならず、「男は会社、女は家庭」という性別分業論に疑問をもつ女 性が、カッカするような文章が意識的に書かれている。
例えば、「亭主」という「それ自体で利益を生み出すような財産」を持っている「専業主婦」は、カテゴ リーとしては金持ちに属する(229ページ)という叙述がある。
次のような文章もある。
「この本の初めで、《若い男は本質的に貧乏だが、若い女は本質的に 貧乏ではない》と言った。
それはこういうことね――つまり、男が女のヒモになるのはそう簡単に出来ることじゃないが、女は当たり前のように専業主婦にはな れる」(229ページ)。
現代の大学生、とりわけ女子学生はこの文章に怒るだろうか。
著者は反撥を百も承知して、なぜこのような挑発的な文章を書いたのだ ろうか。
著者は、若い女が「自分は貧乏である」ことを受けとめる「若い男」になることを期待しているのではないだろうか。
著者は70年前後の「大学闘争」のころに東大に在籍していて、
「止めてくれるな、おっかさん、背中の銀杏が泣いている」
という駒場祭のポスターで一躍注 目され、その後作家活動に入った。
代表作に、『桃尻娘』や『人工島戦記』などがある。
それゆえ、本書は、年頃の娘や息子を持つようになった30年前の全共 闘世代が、バイブルや「資本論」のような共通の必読書がなくなった今日の時代の若者に贈るメッセージである。
いまの大学生はこの本をどのように読むだろう か。
この本にたいする大学生の感想をぜひ聞きたいと思っている。
(『書評』第115号、1999.12)
』
サイトから。
『
★ すばらしき新世界
http://bigbrother.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_6046.html
橋本治、団塊世代の数少ない「知識人」の代表である。
団塊世代の大きな特徴は、既存の権力に距離を置くことである。
結果として、財界・政界・マスコミ・学者・論壇・文壇などに団塊世代の大物はほぼ不在と言うことになった。
昭和一桁生まれと、昭和30年以降生まれの活躍ばかりが目につき、あれだけ大勢いる団塊世代のほとんどは今や
「定年で社会の一線から退くただの年寄り」
ばかりになりつつある。
橋本治も、その才能ゆえに多様な活動をしつつも、今一つその世界の「第一人者」になりえない存在である。
70年代の風俗を切り取った「桃尻娘」シリーズ。
辛辣で鋭い論評。
源氏物語など古典文学の現代語訳化など膨大で貴重な活動も、残念ながら正当な評価を受けているとは言い難い。
その理由の一つが、この一冊を読むことで理解できる。
マンガ雑誌「ヤングサンデー」に連載されたコラムを基にして1994年に発行されたこの本は、橋本治流=団塊知識層流の若者に対するメッセージである。
それは、一言で言うと「重苦しく鬱陶しいアジテーション」なのだ。
今時の若者が「ウザイ」とカタカナで切り捨てる類いの論説なのである。
当時40歳超えの橋本氏が、ほぼ子供にあたる二十歳前後の若者にあてた、一種の人生哲学なのである。
社会主義とはなにか。
貧乏とは何か。
経済の仕組み。
生きる意味。
若いと言うこと。
大人とは。
など、「橋本哲学」とでも言うべき諸々が語られている。
語り口は熱く断定的で挑発的である。
今どきの若者なら寄り付かない「ウザイ説教」そのものである。
書いてあることはとても良いが、読ませたい相手が拒絶反応をおこすなら意味はない。
つまり、その試みは失敗なのである。
読んでもらいたい若者は、文章を読まない世代であり、その内容を正しく理解するにはあまりに世界を知らず、基礎的知識を欠いているのである。
シリーズ化され、文庫化された「貧乏は正しい!」を読んで納得しているのは、むしろ橋本氏に近い世代であるに違いない。
あるいは賢く屈折した橋本氏である。
初めからそのような意図で団塊世代に読ませるために「若者向き」を装って書き上げたように思われもする。
それ位に、中年世代が
「何だかよく解らなくなっている今どきの日本」
を理解するのに役立つ一冊なのである。
団塊世代の人数は極めて多い。
その中の日本の将来に積極的に貢献すべき人物が、世捨て人のように自己満足と批判のみに人生を浪費しているのは悲しいと言うしかない。
ちなみに、この「貧乏は正しい!」というシリーズは5冊あるそうです。
『
出版社 / 著者からの内容紹介
『貧乏は正しい!』シリーズ全5冊は、日本の若者が世紀の変わり目を生き抜くためのバイブルだ。
シリーズ第1弾であるこの『貧乏は正しい!』では、ソ連を 中心とする社会主義体制崩壊からバブル経済の終焉までを、日本の若者のオナニーとリンクさせて語るという、いきなりの離れ業が展開される。
しかし、そこに 書かれているのは"当たり前の本当のこと"だ。
これを読めば、人生が変わる。
』
この本、メモりたい箇所が山のようにある。
でもそんなことしてもラチがあかない。
よって、「イントロダクション」だけでやめておきます。
そのかわりに、インターネットからの書評や感想をあげておきました。
これはコピーするだけなので楽でいい。
手抜き、ミエミエ。
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
_