2009年3月18日水曜日

:三島由紀夫伝:時計と日本刀


● 1995/12[1995/11]



 青年たちが時分の役割や目標を見失いはじめるのは、日本の経済的繁栄の達成度と明らかに反比例する。
 すべてが用意され、すべてが整い、個性を自覚する機会が喪われ、出番がない。

 三島は安保騒動で、つぶさに政治の昂奮を眺めた。
 デモ隊よりも、彼らの抗議を受け止める「日本の父」に関心が移りはじめていた。

 こんな梓(注:三島の父)も一典型だが、三島のターゲットはニヒリストの平岡定太郎(注:三島の祖父)であり藤原銀次郎であり、梓と農商務省同期入省の岸信介であるのだろう。

 三島は「絹と明察」に賭けていた。
 青年から家長へ、あるいは「日本的な権力」とはなにかという問いへ向かうことだった。
 三島は自作をこう説明している。
 「書きたかったのは、日本及び日本人というものと、父親の問題なんです。
 この数年の作品はすべて父親というテーマ、つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描こうとしたものです」

 人間関係の絶えざる連鎖で成り立っている日常生活は、関係のつなぎ目のところに用心深く適度の油をさしていないと錆びつき、ぎくしゃくする。
 生活を幻想の下位に位置づけた三島には、日常はただ飾り立て、演技する場所でしかない。
 三島は、時間を守り、約束を果たすことで有名だった。
 自分と現実とはそういうルールで繋ぎ留められている、と考えていたと思う。

 こうして官僚たちが設計し、これからも設計しつづけるだろう「終わりなき日常」へ、一気にゼロを掛けることのできる切り札、それが天皇、というあらためての発見ではなかったか。
 僕は不思議でたまらないのだが、「天皇制」と呼ばれるものが、日本人にとってみなそれぞれ異なる概念であるらしいことだ。
 その異なり方は、また個人のうちにおいても分裂的に現れる。
 一億人の天皇観があるだけでなく、さらにまたまた無数の天皇観がある。
 つまり未だ定まっておらず、あるいは定まらないかのごとくあるメタファーこそが「日本人の天皇観」なのだろう。
 三島は、独自の内なる天皇観を創りつつあった。

 僕はいま、天皇観は無数にあると、と書いた。
 だが同時に天皇観は万人に共有されている。
 世の中は高度成長期の真っ只中であった。
 戦後的な日常性、安定的秩序は、天皇というフイクションが下支えになっている、と三島は気づいていたであろう。

 昭和天皇には二面がある。
 一つは幻想の最後の拠り所であり、もう一つは現世の経済合理主義を見つめる好々爺の姿である。

 蔵原(注:「奔馬」の登場人物)という人物は官僚そのものではないが、日本における官僚的なるものの体現者とみてよい。
 「国民の究極的の幸福、ってなんですか」と訊ねられて、「通貨の安定ですよ」と答える。
 あるいは
 「経済は慈善事業じゃありませんから、一割方の犠牲を見込むのはやむ得ない。
 残りの九割が確実に救われるのだ。
 ほうっておけば、十割が十割よろこんで全滅してしまいますよ」
 と、言い切るリアリストであり、ニヒリストでもある。
 蔵原は、三島にとっては、1940年体制をつくり、戦後に55年体制を復活させた岸信介でもあるのだ。
 三島の忌み嫌う日常的なるものの演出者である。
 たしかに蔵原の言い分は、官僚であれば正しい。

 ではこれに対抗する論理はあるのか。






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