2009年3月9日月曜日

ムツゴロウの青春記:父の思い出(1):畑正憲


● 1991/10[1974/06]



 人の世には運命というものがある。
 どんなにもがいても逃げられず、たとえちっぽけな真実であっても一生こだわり続けねばならぬような。
 父の一生がそうだった。
 父は百姓の長男に生まれ、-------。
 本人に訊ねてみても、何の疑いもなく、ごく平凡に百姓になるつもりだったという。
 運命を変えたのは、卒業してすぐの麦の取り入れの際、ちいだなゴミが目に入ったことだったた。
 麦の穂の先についている棘は、ざらざらして、小さくても痛いものだ。
 父は急いで医者のもとへ走り、ゴミをとってもらった。
 ところが、その夜から、火がついたように目が痛み始めた。
 父は七転八倒して苦しみ、失明の恐怖に喘いだ。

 田舎の医者は自分の専門を守っているわけにはいかぬ。
 父の目からゴミを取り出した医者は、その前に、婦人の淋病患者を触診していたのである。
 その手の消毒が不完全であったため、一人の若者の運命をもてあそぶことになった。
 全治には、約一年半の歳月が必要だった。
 その間、ちちは、いつ目がつぶれるかという恐怖とたたかわねばならなかった。
 それだけに、献身的な医者の看護が身にしみた。
 「よし、医者になろう。もし目が元通りになったら、無医村へ行こう」
 父はそう決心した。

 私はその話を父から聞かされる旅に野口英世の火傷を思いだした。
 美談のはじめに紹介されるその物語が、あもりにも出来過ぎていて、私は抵抗を覚えたし、いくぶん安っぽいとさえ思った。
 人を「つき動かす」のはもっと純粋な「もっとわけのわからぬもの」ではないかと。
 あまりにも明解なものは、一生を託しているうちに、手垢でよごれ、ボロボロにすり切れてしまうのではなかろうか。
 それよりも、もっと「漠然とした情熱」のほうが、永続性があるのじゃなかろうか、私はそう思った。
 ところが、父は本当にそう決心したらしい。
 そして、そのために一生苦闘を強いられたのである。

 父はあきらめ切れず、母と兄を連れて2回目の家出をした。
 今度は、是が非でも正式な医師免状を手にいれようと決心して。
 父は昼間働き、夜間中学に通い始めたのである。
 私は父が「中学2年生」の時の子であり、校歌を子守歌として育った。
 これはなまなかの決意でできるものではないだろう。
 二人の子を育み、融通の効かなくなり始めた頭で勉強に精を出す。
 一方では、社会人としての勤めもあるのである。
 中学から帰った後、父は卵を落としたウドンをたべて、ねじりハチマキで机に向かった。
 遅くはじめたせいか、英語と数学が苦手で、脂汗を流し、
 「こん畜生、こん畜生」
 と、うめきながら、眠気を吹き飛ばしていた。

 父は立派に卒業した。
 ところが、それだけでは医者にはなれない。
 高等学校と大学がある。

 それで父は、3回目の家出をして満州に渡った。
 自分が作り出した家庭からの脱出である。
 幸い、母は手に職があった。
 助産婦の免状があった。

 父は奉天医大を卒業して満州政府が発行した正式の医師免状を手に入れてしまった。
 父はついに成し遂げたのである。
 満州国のものであったが、医師免状を手に入れ、辺境の無医村で開業したのである。

 不思議にも、私の記憶はこの辺りから突然はじまっている。
 満州に着いた瞬間から始まっているにである。
 それ以前のことは何一つ憶えていないが、上陸以後のことは肉感的ななまなましさでよみがえってくる。






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