● 1997/03
『
それでも、わたしにはわかる。
わたしたちは人間なのだから、それぞれみんな誰とも違う顔をして生まれ、その顔が一生の間ついてまわるのだ。
レイヨウはレイヨウの、ライオンはライオンの顔で生まれ、種が同じならみんな兄弟みたいに似た顔をしている。
自然界の生き物の姿はどれも変わらない。
けれど人間だけには彼らと違った顔がある。
「顔がある」のだよ。
そして、その顔には「すべてがある」
その人の歴史があり、父が、母が、祖父母が、あるいはだれの記憶にもないほど遠い伯父までいる。
顔には人となりが見え、祖先から受けついだいい面もそうでない面も見えてくる。
顔は自分そのものであり、これが「わたしよ」、と示しながら人生をかたちづくっていくための土台なのだ。
人がよく間違えることが何だかわかるかい。
人生とは変わらなくて、一度ある軌道に乗ったら、おしまいまで進んでゆくしかないと思いこむことだよ。
でも運命というのはもっと、気まぐれなものさ。
もう逃げ場がないという絶望のきわみに達したとき、いきなり突風が吹いてきて、すべてが変わり、気がついたときには新しい人生がはじまっていたりする。
わたしは何年もの間、自分の足で歩いているとばかり信じていた。
でも実際は、一人では一歩も歩いていなかったのだ。
わたしはしらなかったが、私に足元には馬がいて、進んでいたのは、わたしではなくて馬だった。
馬が消えて、はじめて自分の足に気づいたが、足は弱すぎて、歩くたびにくるぶしが痛み、まるで赤ん坊か年寄りみたいに危なっかしかった。
それで、なにか杖になるものはないかと考えた。
一つは宗教で、もう一つは仕事だった。
でもそんな考えはしばらくの間しか続かなかった。
それもまた数々の間違いの一つだと直にわかったのだ。
四十歳は、もう間違いを許される年齢ではない。
もし自分が裸だとにわかに気づいたら、裸のままの姿を鏡に写してみる勇気がいる。
そうやって第一歩から出直すのだ。
「でも、どこから?」
自分の足で歩くことから。
そう言葉で言うのはたやすいが、並大抵のことではなかった。
わたしは何処にいるんだろう。
わたしって誰なんだろう。
わたしがわたしであったためしなど、いままでにあるだろうか。
おまえのお母さんに書くべきだったこの手紙を、おまえに宛てて書いている。
もし、まったく書かなかったら、私の人生なんてただのクズみたいなものだったろう。
過ちを犯すのは自然なことだが、それを理解せずに逝ってしまったら、人生も無意味になってしまう。
わたしたちに起こることは、ただそれだけでなにも残さず終わってしまうものではなくて、どんな出会いにも、どんなささいな出来事にもそれなりの意味がある。
自分自身への理解は、自分を受け入れようとする心から生まれるのだよ。
自分の内部をのぞきたくないとき、人はやすやすと逃げ道を見つけるものだ。
外に罪をなすりつけるのは雑作ない。
罪は---というより責任は---こちらだけにあると認めるにはたいした勇気が必要だ。
けれどもすでに言ったように、そうしなければ前には進めない。
人生がひと筋の道だとすれば、いつでもそれは「上り坂」なのだよ。
存在する唯一の教師は、唯一信頼できるほんものの教師は、自分の意識なのだ。
それを見つけるには、静寂の中に---ひとりだけひっそりと---身をおかなければいけない。
なにもない地面の上に、何も飾らず裸のままで、死んだようにしていなければならない。
はじめは何も感じず、ただこわいだけだが、そのうちに深い底から、ある声が聞こえてくる。
その声は静かだけど、なんの変哲もないのではじめはいらいらするだろう。
奇妙なことに、偉大な真理が聞きたくとも、聞こえてくるのはありふれた言葉ばかりなのだ。
「これっぽっちのことだったの!」と。
』
古本で買った本なので、前の読者のマーキングがあった。
最後の部分についていた。
載せておきます。
『
12月21日
そこに座って待ってごらん。
おまえがこの世に生まれ出てきたときと同じように、たくましい深い息をして、どんなことにも気をそらされずに、ただ待ちつづけてごらん。
黙ってじっとすわったまま、心の声を聞いてごらん。
そして、声が聞こえたら、立ち上がって、おまえの心のおもむくまままに行くがいい。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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