2009年3月3日火曜日

:12月1日、4日、12日,16日


● 1997/03



 それでも、わたしにはわかる。
 わたしたちは人間なのだから、それぞれみんな誰とも違う顔をして生まれ、その顔が一生の間ついてまわるのだ。
 レイヨウはレイヨウの、ライオンはライオンの顔で生まれ、種が同じならみんな兄弟みたいに似た顔をしている。
 自然界の生き物の姿はどれも変わらない。
 けれど人間だけには彼らと違った顔がある。
 「顔がある」のだよ。
 そして、その顔には「すべてがある」
 その人の歴史があり、父が、母が、祖父母が、あるいはだれの記憶にもないほど遠い伯父までいる。
 顔には人となりが見え、祖先から受けついだいい面もそうでない面も見えてくる。
 顔は自分そのものであり、これが「わたしよ」、と示しながら人生をかたちづくっていくための土台なのだ。

 人がよく間違えることが何だかわかるかい。
 人生とは変わらなくて、一度ある軌道に乗ったら、おしまいまで進んでゆくしかないと思いこむことだよ。
 でも運命というのはもっと、気まぐれなものさ。
 もう逃げ場がないという絶望のきわみに達したとき、いきなり突風が吹いてきて、すべてが変わり、気がついたときには新しい人生がはじまっていたりする。

 わたしは何年もの間、自分の足で歩いているとばかり信じていた。
 でも実際は、一人では一歩も歩いていなかったのだ。
 わたしはしらなかったが、私に足元には馬がいて、進んでいたのは、わたしではなくて馬だった。
 馬が消えて、はじめて自分の足に気づいたが、足は弱すぎて、歩くたびにくるぶしが痛み、まるで赤ん坊か年寄りみたいに危なっかしかった。
 それで、なにか杖になるものはないかと考えた。
 一つは宗教で、もう一つは仕事だった。
 でもそんな考えはしばらくの間しか続かなかった。
 それもまた数々の間違いの一つだと直にわかったのだ。
 四十歳は、もう間違いを許される年齢ではない。
 もし自分が裸だとにわかに気づいたら、裸のままの姿を鏡に写してみる勇気がいる。
 そうやって第一歩から出直すのだ。
 「でも、どこから?」
 自分の足で歩くことから。
 そう言葉で言うのはたやすいが、並大抵のことではなかった。
 わたしは何処にいるんだろう。
 わたしって誰なんだろう。
 わたしがわたしであったためしなど、いままでにあるだろうか。

 おまえのお母さんに書くべきだったこの手紙を、おまえに宛てて書いている。
 もし、まったく書かなかったら、私の人生なんてただのクズみたいなものだったろう。
 過ちを犯すのは自然なことだが、それを理解せずに逝ってしまったら、人生も無意味になってしまう。
 わたしたちに起こることは、ただそれだけでなにも残さず終わってしまうものではなくて、どんな出会いにも、どんなささいな出来事にもそれなりの意味がある。
 自分自身への理解は、自分を受け入れようとする心から生まれるのだよ。

 自分の内部をのぞきたくないとき、人はやすやすと逃げ道を見つけるものだ。
 外に罪をなすりつけるのは雑作ない。
 罪は---というより責任は---こちらだけにあると認めるにはたいした勇気が必要だ。
 けれどもすでに言ったように、そうしなければ前には進めない。
 人生がひと筋の道だとすれば、いつでもそれは「上り坂」なのだよ。

 存在する唯一の教師は、唯一信頼できるほんものの教師は、自分の意識なのだ。
 それを見つけるには、静寂の中に---ひとりだけひっそりと---身をおかなければいけない。
 なにもない地面の上に、何も飾らず裸のままで、死んだようにしていなければならない。
 はじめは何も感じず、ただこわいだけだが、そのうちに深い底から、ある声が聞こえてくる。
 その声は静かだけど、なんの変哲もないのではじめはいらいらするだろう。
 奇妙なことに、偉大な真理が聞きたくとも、聞こえてくるのはありふれた言葉ばかりなのだ。

 「これっぽっちのことだったの!」と。





 古本で買った本なので、前の読者のマーキングがあった。
 最後の部分についていた。
 載せておきます。


 12月21日

 そこに座って待ってごらん。
 おまえがこの世に生まれ出てきたときと同じように、たくましい深い息をして、どんなことにも気をそらされずに、ただ待ちつづけてごらん。
 黙ってじっとすわったまま、心の声を聞いてごらん
 そして、声が聞こえたら、立ち上がって、おまえの心のおもむくまままに行くがいい。




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