2009年2月27日金曜日
:日米芸術家気質
● 1976/11
『
私が日本に来てまもなく、くり返しよく耳にする言葉だと気づいたのは、「シカタガナイ」と「ハズカシイ」の外にもう一つ、「イソガシイ」だ。
そのうち私にも、日本では<忙しい>というのは一つの美徳であることがわかりはじめた。
編集者たちが入かわり立ちかわりやってくる。
マスオ(池田満寿夫)の原稿を受け取ったり、彼にインタヴユーをしたり、写真を撮ったりする。
私は、はじめて東京にやって来た時、日本では芸術家や作家の意見が何かにつけて求められ、引っぱりだこであることを知って、すっかり驚いてしまった。
東洋には文化を尊重する長い伝統があることは予備知識として知っていたが、日本ではアメリカとは比較にならないほど、芸術家が社会における必要不可欠な部分であり、彼らの意見が高く評価されていることは、すぐさま感じられた。
芸術家が新聞や雑誌にものを書き、しかもそれが芸術についてとはかぎらない、という現象は、私にはなかなか信じられないことだった。
一般的に言って芸術家や知識人がおおよそ尊敬とはほど遠い存在、むしろ軽蔑される存在であるアメリカでは、とうてい考えられないことだからである。
日本では、人びとは芸術家の書いたものにかぎらず、畑ちがいの人の書いたものを好んで読むようだ。
アメリカでは、読者自身がなんらかの形で文化にかかわりを持っていないかぎり、わざわざ芸術に関するものを読もうとはしない。
私のアメリカ人の友だち、得に芸術家の中にはめったに本を読まない人がいて、びっくりさせられることがよくある。
それにひきかえ、日本の人びとのなんと旺盛な読書欲!
あるアメリカ人の日本文学者と話した時、日本では専門の文筆業でない人が随筆などを書(映画スターや人気歌手が旅行記を書いたり、画家が文学を語ったり‥‥)ということに話が及んだ。
すると、彼はいったもんだ。
「
そうなんだ!
すごくいいことだと思うよ。
誰でもかける、だれでもなんとか書いてのけられる。
ただし、そのほとんどがナンセンスだけどね。
少なくとも、その十分の一でたくさんだね、出版されるのは。
」
が、とにかく私たちの結論は、人びとには自分を表現し社会に貢献できる貴重な機会が与えられている、ということだった。
アメリカでは「作家」でないかぎり、自分のものを出版できるこうした機会を掴むのは実に難しいということがわかるだろう。 私自身がこのジレンマに直面したのである。 ある日ひとりの編集者がやって来て、私自身についてものを書いてみないか、と勧めたのだ。 彼女によれば、マスオが「私自身のアメリカ」の中でたびたび私の考え方や意見を引いているのを読み、それならいっそう本人が、と思ったという。 私にしてみれば、昔むかしの学生時代をのぞけば手紙以外およそ文章らしいものなど一行も書いたことなかったのだから、その案にはまったくおじけづいてし まった。 私自身ではとうてい思いつきもしないことだ。 とは言え、その企画に魅力を感じないわけにはいかなかった。 私の心は千々に乱れ、手当たり次第に友だちの意見を聞かせてもらった。 「 どうしよう、やるべきかしら、どうしよう。 しょせん私は絵描きで、物書きではないんだから‥‥ 」
ある日、東洋にも西洋にも精通している友人の加藤周一氏と天ぷら屋で昼食をとっているとき、私は彼の考えを聞いてみた。
彼はきっぱりした口調で答えた。
「
リラン、それは是非やるべきだ。
そういう機会でもなければふだんは意識にものぼらないようなことを、いろいろ考えられるだろうからね。
」
そこで、私にもようやくやってみる決心がついたのだった。
自分の専門とは別のメデイアで自分を表現するということは、その人の興味、関心、能力などを広げてくれる。
たぶん、自己発見にまでつながることもあるだろう。
おそらくマス・コミニケーションの時代においては、社会の一部分、一要素としてそこに組み込まれるという一見健康的で建設的なことは、それなりの問題、それなりの危険が伴うのだろう。
私としては、社会に参加することによって満足を得る芸術家の気分も理解できるし、むしろアウトサイダーでいることを好む芸術家の気持ちもわかる。
たとえそれが、自国にありながら疎外されていることを意味するにしろ、日本という過密な島を遠く離れ、異国に暮らすことを意味するにしろ。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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