2009年2月1日日曜日

葉桜の日:果実の舟を川に流して:鷺沢萌


● 1991/07


 22歳の新鋭の最新作。
 見慣れた街が、身近な人びとが、ふいに新鮮な光を浴びて、新しい世界が見の前に展けるとき‥‥[新潮社]


 どちらにせよ人生に「もし」「たら」はないし、どっちが良いかなんて問題も考えてみたって始まらないことである。
 そのことをいつも考えていた時期があって、結局たどり着くことのできる結論は「考えてみても始まらない」なのである。
 結論が判りきっているのに考えるのは脳味噌に無駄な汗をかかせるのと同じことだ。

 昔の偉い哲学者だか作家だかが行ったことを思い出していた。
 「飢えそうな人間は、腹がはち切れて死ぬまで食うのだ----

 人と人との関係の中にできたひずみは、いつかは必ず、いずれかの形で外に表われ出たはずだと思う。
 そう考えてみれば、「今」もなるべくしてなったもので、「以前」の方が架空の日々であるのかも知れない。
 しかし、感覚の中では、より確実に自分のものとして感じるのは「以前」なのである。
 そのくせ、なるべく自分の後ろにある日々を見ようとはしないでいる。

 自分の身体の外側が、目には見えない透明な膜で覆われているように感じることがある。
 巻くの内側の自分、まくの外側の自分、を殊更に意識しているわけではないけれど、それは何かの折々に、ふと感じてしまうものである。
 このまま一生、この膜を着続けて生きていくのかと考えると、正直なところ多少うんざりするけど、見方を変えれば結構それも楽だと思う。
 どちらがほんとうの自分なのかはいつでも判然としなくて、そう考えれば実は「ほんとうの自分」なんてどこにもいないんじゃないかとも思える。
 毎日はフワリフワリと過ぎて、先のことを考えなければ、それはまともな勝負よりずっと楽だ。

 自分を「演じて」いると思うわけではないが、いちばん近いのはそのことばかも知れない。 
 そうしてそれを認めてしまえば、人間たちの殆どが「演技」をしているのではないかという気がしてくるのだ。











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