2009年2月14日土曜日

:大手三之門御与力様失踪事件之顛末


● 2006/02/10



 昭和26年生まれの私は、いわば高度成長期の申し子である。
 多少の境遇の差こそあれ、国家の復興と発展をそのまま滋養として育った、まことに幸福な世代であるといえよう。
 しかも都合の良いことに、その発展の過程は質的な向上と拡大に終始しており、努力とは言えぬほど世の流れに身を委ねていれば自然に幸福になるという結構なものであった。
 たとえばテレビや自動車の普及なども、当時は革命的と思えたのだが、いざ手に入れてみれば物質生活の向上と拡大の利器ではあっても、人間の本質を変えるほどの厄介なものではなかった。
 すなわち、戦後からつい先頃まで長く続いた高度成長は、革命という言葉に合致する発明などほとんどない、斬新的な社会発展であり、われわれは享受されるものを健全にしようしてさえいれば幸福であったのである。
 脅威の発明はたくさんあったが、脅威を感ずる発明はなかった、と言えば的を射ているであろう。

 ところが、近年われわれがすこぶる急進的に使用するようになったコンピュータと携帯電話機は、その伝で言うなれば驚異より脅威である。
 これらの普及によって、社会の本質も人間の本質もくつがえったような気がする。
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 携帯電話機は、自由と安全を保障する利器でありながら、同時に個人の自由と安全を殆くするという二面性を持っている。
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 かって父親は、毎朝「行ってきます」と出たら最後、どこで何をしているかわかったものではなかった。
 御幣があるというなら、どこで何をしているかは父親本人の自由意思と良識に委ねられていた。
 すなわち、権利である。
 しかし、携帯電話機を所有してからというもの、この権利は喪われたどころか、家族なり会社なりから連絡があった場合、どこで何をしているか即答しなければならぬという義務まで発生したのである。
 つまるところ伸縮自在の首縄の端を、家庭と会社に握られているようなもので、この姿はどうみても「人間的ではない」。
 ならば自由のために電源を切っておけばよさそうなものであるが、たとえ悪事を働いていなくとも、あらぬ憶測を招き疑惑を抱かれると思えば幽鬼が要る。
 いや、その程度の幽鬼などいわゆる匹夫の勇に如かぬであろうから、それを行うてしまお憂いを残さぬためには、会社からも家庭からも信頼される人格者でなければなるまい。






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