2009年2月20日金曜日

憑神:貧乏神、疫病神、死神:浅田次郎


● 2007/05



 いかに古い家来であろうが、足軽は足軽というわけだ。
 何をされても文句のつけようがない、身分の足元を見られたのである。
 不幸の正体は、まさにそれであった。

 「わしら神の目から見れば、人の世は興行でごんす」
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 「わしがまちごうているのではあるまい。
 世間の仕組みとやらがまちごうているのだ。そんな理屈が罷り通ってなるものか」
 「平安とはそういうもんでごんす」
 「ちがう。
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 おい、聞いておるのか、疫病神。
 そこもと八百万の神々のはしくれならば、少しは神様らしきことを言うたらどうだ。
 まったく、人間に説教などされおって、だらしない」 

 おのれがなすべきことは、この二百五十年にわたる太平の日々が、けっして悪いものでなく、つまらぬ時代ではなかったと、たったひとりでも去り行く世に向こうて叫ぶことではないのか。
 武士道も人の道もよく知らぬ。
 だが、七十俵五人扶持の御徒士の道は知っている。
 それは大義に生きるのではなく、「小義に死する」足軽の道である。
 神の意のままにならぬ人間が、ひとりぐらいいてもよいであろう。
 侍なのだから、死を怖れてはならぬ。
 ただ神の意のままに死するは武士の本懐とはいえぬ。
 ささやかな義すらまっとうできぬおれが、神の意のままに死するは犬死である。

 「拙者は、天に選り抜かれたのかもしれぬ。そう思わねば、やがて来る死神にまみえる顔がない」
 「神仏は、おまえ様のおもうほど偉くはないぞ」
 「しからば、その偉くはない神仏に、人間の偉さを見せてやるだけだ」

 名人と呼ばれる人はみな似たものであろう。
 人間よりも物を信じ、物を愛していれば偏屈にもなる。
 腕を上げれば上げるほど、人間から遠ざかり、またその隔たりの分だけ人間が馬鹿にみえるのかもしれぬ。
 「侍の権威が地に堕ち、性根もまた腐り切っておるというに、刀ばかりは古刀の名手に迫る技量が続々と現れる」
 
 「人間はいつか必ず死ぬ。
 ----神々はみな力がござるが、人間のように輝いてはおらぬ。
 死ぬることがなければ、命は輝きはせぬのだ。
 しかし、わしの命には、まだ輝きが足らぬ」
 人間が全能の神に唯一まさるところがあるとすれば、それは限りある命をおいてたにはあるまい。限りあるゆえに虚しい命を、限りあるからこそ輝かしい命となせば、人間は神を超克する。
 「おじちゃん、そんなことできっこないよ」
 「いや、できるできぬではなく、やらねばならぬ。頼む、おつや。わしに時をくれ」

 「わしも大言壮語を吐いたはよいものの、これとさだむる死場所が見つからずに往生しておる。洒落ではないぞ。もことに往生しておる」
 死神に延命を懇願したあげく、ついに死にどころを得ぬのである。
 ほかの侍たちは恥を忍んで命ばかり永らえればそれでめでたいかも知れぬ。 
 が、おのれひとりは、はなから命がかかっている。
 ましてやそうしたおのれに情けをかけた死神も、今や立つ瀬があるまい。

 憑神は、主人に弓引けと申しまする。
 かねてより事情を知りたる同輩も、親しき町人もさようもう島する。
 神と侍と町人と、みなが口を揃えて申しますることは、おそらく天下の総意と思うて誤りなきかと存知まする。
 しかしながら、拙者には総意すなわち正義であるとは、どうしても思えぬのでございまする。
 かくして、拙者は、神と人との総意に抗いまする。
 拙者のごとき下賎の侍は仏にこそなれ、神にはなれませぬ。
 ならばせめて、有為の人間として死にとうござりまする。
 その一死こそが、武士の本懐と信じおりますれば。
 臣、別所彦四郎直篤、徳川の殿軍の一兵として死にとうござりまする。
 その手立てを、なにとぞお教え下されませ。
 伏して御願い奉りまする。






 この本、一月のはじめに読んだのだが、そのときの抜書きが残っていた。
 「お腹召しませ」を読んだので、今回同じ著者の長編ものということで読み返した。
 前のに加えてまとめてみた。


【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】



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