2009年2月14日土曜日

:江戸残念考


● 2006/02/10



 戦後生まれの私には「チャンバラごっこ」なる遊びに興じた最後の世代であろう。
 プラスチックの玩具が登場する以前の話で、いたいけな子供の遊びとはいえ使用する刀はブリキ製か棒きれであったのだから、今にして思えば危険きわまりなかった。
 そのかわりチャンバラで怪我したという記憶も、人を傷つけた覚えもないのは、子供らが遊び道具の危うさを知っていたからであろう。
 子供の数が多く、親は働くことに懸命で、満足な子育てができなかった次代にはなるほどその子供らにも分別があったらしい。
 私は斬られ役を好んだ。
 悪役にになるのは嫌だったが、役どころの善悪にかかわらず、斬られて死ぬのはチャンバラの醍醐味であった。
 何しろ得物は重量感のあるブリキの刀であるから、袈裟がけにバッサリ斬られると、かなりの醍醐味をもって死の擬態を演じられた。
 この演技がうまくできれば子供からは尊敬され、自ら一場面の主人公として悦に入ることもできた。
 ところが中には、斬られても死のうとしない負けず嫌いの子供がいて、それは一種のルール違反であったから、しばしば揉め事の種となった。
 チャンバラごっこは、いわば集団の即興劇である。
 つまり「斬られたら死ぬ」という約束事があったればこそ、チャンバラは成立する。
 だからそういう負けず嫌いの子供は仲間はずれにされた。
 私は死にざまに自信があった。
 私がいなければチャンバラが始まらぬというほどの人気の秘訣は、ひとえに誰にも真似のできぬ「みごとな死にざま」にあったのだと思う。
 斬られた瞬間、動きを止めて抗うに抗いえぬ心を残し、「む、無念!」もしくは「ざ、残念!」と叫んでどうと倒れるのである。
 演技はともかく、この「残念無念」のセリフは妙に子供らに受けた。
 私が斬られて死ぬ場面はチャンバラの華とされ、そのときだけは全員が斬り合いをやめて、私の死にざまに見とれたほどであった。
 真似る子供もいたけれど「残念無念」のセリフは下手であった。

 そもそも私にこの演技指導をつけてくれたのは祖父である。
 いたずらで祖父の背を斬りつけたとき、「ざ、残念!」と叫んで新でくれた演技が真に迫っており、私は感動の余りその死にざまを教わったのであった。
 私の家には、
 「御一新の折にはひどい苦労をした
という言い伝えだけが残っていた。
 その「ひどい苦労」が具体的にどういうものであったかは知らない。
 言えば愚痴になるという武士の見識から、詳細は伝えられなかったのであろう。
 しかし、明治30年生まれの祖父が、幼いころそのまた祖父から残念無念の「死にざまを伝授」されていたとすると、いわば一家相伝のその迫真の演技も肯ける。
 よその子が真似ようにもうまく真似られなかった理由もわかるような気がする。

 いったいわが父祖がどんな苦労を舐めさせられたのか、「残念無念」のセリフになぜ一家相伝の心がこもっているのか、あれやこれや思いめぐらせているうちに、私の魂は御一新の昔に飛んでしまった。
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 さて、私の魂は紙鳶のごとく江戸の空を飛んで、ようやく書斎へと戻ってきた。
 合理的にわが遺伝子をたどってみれば、私の祖先がさほど恰好のよかろうはずはない。
 だが、想像の中にも身贔屓が働くのは人情である。
 興の趣くまま一気呵成に書き上げた原稿をこれから読み返すのだが「残念」と呟いて机上にふすのかと思うと、これもいささか気鬱にもなる。
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 父や祖父が祖宗の遺言に従って、生涯弓弦を引くがごとく矯めに矯めた「残念」の一言を、いまわのきわみにみごとに射放ったかどうかは知らない。
 私はぜひとも言ってみたいと思うのだが、よくよく考えてみれば、無念にも残念も言う必要のない人生が理想である。
 浅田次郎座衛門の遺言の真意は、おそらくそれであろう。




 「残念!




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