2009年2月26日木曜日

余白のあるカンヴァス:梨蘭賛美[加藤周一]



● 1976/11



 いつどこで私は彼女にであったのだろうか。
 季節は覚えていないが、たしかに鎌倉の親しい友人の家だったろうと思う。
 私たちは、いくらか日本語で、いくらか英語で話していた。
 若いけど、少女ではなく、優しいけれど、臆病ではなく、控えめであって、しかし言うことははっきりしているという印象をそのとき私は受け、その考え方に、あるいはその感じ方に、あるいはむしろその双方に、世間出来合いのそれでなく、その人だけの味があると思った。

 昔の日本でよく知られていた中国の習慣では、梨花は美人の喩えに用い、蘭は画帖に好んで描かれる。
 梨蘭の名は、その体を現すのだろうと思う。
 中国系の画家と米国婦人との間に生まれた彼女は、早くからニューヨークで自活し、画家を志し、1960年代の若い女性として生きてきたのである。
 
 ニューヨーク市は、それを好むためにも、嫌うためにも。あまりに複雑な都会だろう、と私は思う。
 もしその街に生まれ育ったら、ものの考え方や感じ方がどういう具合に形成されるか、もしニューヨークをその意味で内側からみたら、その世界がどういう風にみえるだろうか、と考えた。
 それこそは、LI-LAN が語り得ることにちがいない。
 彼女は、それを知るためには、十分に内側に、それを語るためには、十分に外側に、生きていたはずだから。
 私はしばらく画筆を措いても筆硯に向かうことを彼女に説得しようと思った。

 LI-LAN はその文章のなかで、過去をふり返りながら、彼女自身を語り、同時にニューヨークを語っている、話題が日本やメキシコの経験に及ぶときにさえも。
 そこには、一般にアメリカ人の世界ではなくて、一人のニューヨーク人の世界がある。
  仕事を人格の中心に近いところにおくこと、他人と接する部分を自ら定めること、「自分自身に対して皮肉であり得ること」、またそのことと関連して一種の 「ヒュ-モア」の感覚のあること、時代のあらゆる事柄に関わりあると常に考えるとはかぎらないが、考える可能性をもっていること----そういうことが、 彼女の文章のあらゆるところにあらわれていて、私は大いにそれを好む。
 わたしだけではなくて、わが日本の多くの読者でもあり得るだろう、と想像する。

 私は LI-LAN を賛美する。
 だから友だちなったかもしれないし、友だちになったから賛美するのかもしれない。
 あるいはむしろその双方だろう。
 私の意見は必ずしも客観的ではないかもしれない。
 しかしこの天地の間には客観的判断よりも大切なことがあるだろうと私は思うのである。







 巻末の著者紹介文より。


 リラン(Li-lan)
 1943年、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで生まれた。
 母はアメリカ人、亡父は中国人の画家。
 高校を卒業してから絵を描きはじめ、これまでにいくつかのグル-プ展に出品し、個展も日本とアメリカで何回か開いた。
 日本では1971年、74年に東京・南天子画廊で。
 1965年にニューヨークで版画家の池田満寿夫を知る。
 その後二年たらずでヨーロッパに行き、生活を共にしはじめた。
 彼とともにはじめて日本の土を踏んだのは1968年。
 以来二人は、二つの国のあいだを行ったり来たりし、ある時期は東京で、またある時期はニューヨーク州イースト・ハンプトンで暮らしている。








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★ 繰り言 The Grumbling Harp
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