2009年2月14日土曜日

:御鷹狩


● 2006/02/10



 青春はさまざまな欲望の坩堝である。
 わけのわからぬ無数の欲が肉体のうちに煮えたぎっている。
 私の青春時代は昭和40年代の高度成長期に当たるが、多くの若者は国家の繁栄を実感できるほど豊かではなかった。
 社会は金持ちなのに俺たちは貧乏だという、妙な被差別感情を若者たちは共有し、一揆のような学園紛争が流行した。
 政治や思想を語れぬ今の若者は無思慮だと非難する同輩が多いが、わたしにはそうとは思えない。
 現代の若者たちは煮え滾る欲望を、政治や思想に託けて発散しなければならぬほど貧しくはなく、また愚かしくもないのである。
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 付き合う友人は文学青年でもゲバルト学生でもない、すこぶるいいかげんな連中に限定された。
 そうした悪友たちと、しばしばフーテン狩りにでかけた。
 その当時、新宿の界隈には「フーテン族」と俗称される若者たちが屯ろしていた。
 いい若い者が着のみ着のままのなりで、日がな浮浪者のごとくごろごろしているのである。
 何もせず、何も考えないというのが彼らの哲学であった。
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 私たちの「フーテン狩り」には格別の目的があったわけではなかった。
 陽の落ちたころを西口の中央公園に出かけてころあいの獲物を見つけ、大怪我をしない程度に痛めつけて帰ってくるのである。
 むろん金品を奪ったり、恐喝はせず、女のフーテンには目もくれなかった。
 物も言わず躍りかかるや、無抵抗で無気力な若者をひたすら殴って立ち去るだけである。
 公園をひとめぐりすると、私たちは何事もなかったようにそれぞれの家や職場に戻った。
 私は妙にすっきりとした気分になって、好きな小説を読んだり、甘い恋物語を書いたりした。
 このフーテン狩りは、いっとき日課のようになっていたが、警察沙汰になったためしはなく、返り討ちに遭ったこともなかった。
 青春の欲望を処理する方法として、ある若者はゲバ棒をふるい、ある若者は無思慮無行動に徹し、またある若者は狩人に変じていたわけである。
 今にして思えば、どれもまことにわかりやすい若者たちであった。
 どうやらあのころ私たちは、社会から供与された自由をわが身にどう活用してよいかわからず、とりあえず学生運動なりフーテンなり暴力少年なりの居心地のよさそうな集団の中に、おのれを帰属させて安定を図っていたらしい。
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 祖父と二人きりで暮らしていた廃屋のような家には、火鉢と炬燵と夜具のほかは何も無かった。
 勉強ばかりしていると、うらなり瓢箪みていになっちまうぜ、と祖父は言い、私の手から鉛筆を取り上げ耳に挟み、火鉢の向こう前に腰をすえて、昔語りを始めた。
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 私の家には「御一新の折には大変な目に遭った」という言い伝えが残るばかりで、その「大変な目」がいったいどういうことだったかは、一切語り継がれていない。
 しかし今に思えば、曽祖父は我が家に起こった出来事を、あたかも他人事のようにさりげなく祖父に伝え、祖父もまた他人事と信じて私に語り聞かせていたのではなかろうかとも疑われるのである。
 はたして悪い記憶は語り継ぐべきなのか、それとも忘れ去るべきなのか、社会にとっても個人の人生にとっても、その判断はまことに難しいところであろう。
 傷痕と教訓とを冷静に選別できるほど、人間は高等な生き物ではない。
 そう思えば、身の不幸をあたかも他人事のごとく語り伝えるという方法は、いかにも明治人らしい巧まざる叡智という気もする。
 祖父は話に詰まると、爪のくろずんだ、粗く節くれ立った指に火箸を握って、適当な言葉が見つかるまでいつまでも火鉢の灰をかきまぜていた。

 その誠実さが、私にはない。






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