2009年2月14日土曜日

お腹召しませ:跋記:浅田次郎


● 2006/02/10



 跋 記

 「五郎治殿御始末」に続く時代劇短編集、いかがだったろうか。
 本書刊行にあたりふと思うところがあって、跋文を記す気になった。
 物語の余韻を損なわねば幸いであるが。
 私は子どものころから、文学が好きで歴史も好きだった。
 だが、ふしぎなことに、この二つの興味を融合した歴史小説は好まなかった。
 自由な物語としての文学様式を愛し、一方では真実の探求という歴史学を好んでいたせいである。
 つまり、小説というのはその奔放な嘘にこそ真骨頂があり、歴史学には嘘は許されないと信じていたから、歴史小説を楽しむことなどできるはずがない。
 小説としてよめばわずかな学術的説明も邪魔に思えてならず、また歴史としてよめばところどころに腹立たしい記述を発見してしまう。
 自分が歴史小説なるものをい書くにあったえ、最も苦慮した点はこれであった。
 嘘と真実とが、歴史小説という器の中でなんら矛盾なく調和していなければならぬ。
 これは奇跡である。
 たとえば、本書の部分からその苦悩の痕跡を引き出してみよう。
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 以上はわかりやすい例であるが、随所にわたってこうした「嘘」を持ち込まねば、多くの読者を納得させる歴史小説は、まず成立不可能であろう。
 私は歴史小説という分野を、「歴史好きの読者の専有物」にはしたくないのである。
 「貴き母国語の司祭たる小説家」は、その記す一句一行に責任を負わねばならぬ。
 全きものをめざすのであれば、時としてし史実にそむくこともありうる。
 本来相容れざる文学と歴史とのいわば不義の子としての歴史小説を、あえて世に問う私の覚悟はこれである。

 幼いころから胸に抱き続けてきた矛盾をどうしてもおざなりにはできず、この覚悟を本書の跋文に記す。

 平成丙戌一月吉日
                              浅田次郎




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