2009年2月25日水曜日
我が町、ぼくを呼ぶ声:訳者あとがき
● 1980/07
『
洋書屋でこの原本を初めて手にしたときの驚きを今も憶えている。
フェイバー・アンド・フェイバー社版のジャケットには、なんとす裸の中年婦人がイギリスの田舎町を闊歩している絵がえがかれていて、タイトルは "The Pyramid" と記されていた。
ウイリアム・ゴールデイングの代表作は、何といっても「蠅の王」(1954)であるが、本書は彼の第六作(1967)の全訳である。
「蠅の王」にまさるとも劣らない、すばらしい魅力をもった、独創的な作品だとぼくは思う。
それにしてもこのイギリスの田舎町の人びとの生態は、簡潔ながら具体的に、明確な輪郭をもって、じつに見事に描かれている。
きびしい階級意識にしばられ、俗物根性が骨の髄までしみついた人びと、それらから解き放たれようとすれば、かえって自縄自縛に陥るしかない、愛を求めて手をのばしてもついに叶えられることのない、グロテスクに歪んだ人びと----。
この作品はいかにもけれんみのない、じつにリアリステイックな筆致で出発する。
だが四分の一も読み進まないうちに、まてよと思う。
ある意味ではたしかに終わりまで社会風俗小説であり、リアリズム小説である。
が、ホントウにそうだろうか。
なんだかこの作品は謎めいている。
そう、リアリズム小説ではないのだ。
あるいは謎めいたリアリズム小説といっても同じことなのだけれど。
その謎とは、つまり、ぼくらがその中で生きている文明のかかえもっている、あるいは秘めている謎である。
日々、不用意にもぼくらは往々にして意識せずに、あるいは意識しても検めてみようともせずに、目に見えない文明のピラミッドを営々として築き上げることに手を貸してうる。
そうしたピラミッドだと言いかえてもいい。
現代イギリス文明の中にはほとんどとり込まれてしまったオリヴァー、結局は負のかたちであってもこの町によってモラルを形づけられたというよりほかないオリバヴァーも、語り手としての特異な役割は、この謎にかかわって極めて重要である。
謎をさらに深めたり、謎の所在がほかならぬ彼自身にあることを暗示したりするのである。
この語りの仕掛けは、ゴールデイングの新たな文学的技法上の勝利と言わねばならない。
イギリス文明のピラミッドを見るようにと読者を誘っているように、ぼくには思われる。
この小説は教養小説ではない。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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