2009年2月21日土曜日
:昭和十九年
● 1979/04 新潮社
『
七月十八日、組閣開戦決定以来二年九ケ月で、ついに東條内閣が総辞職する。
野村直邦海軍大将は、就任からわずかに18時間後に辞表の捧呈をさせられた。
「一夜大臣」と部内部外でもの笑いになった。
「軍は要するに作戦に専念すべきものなり。
元来、軍人は片輪の教育を受けているので、それだからこそ又強いのだと信じている。
従って政治には不向きなりと思ふ」
「軍人はかたわ」の教育をうけているから「政治には不向き」だと言明した人はちょっと見当たらない。
七月二十二日、現役に復帰した米内光政は、海軍卿勝安房から数えて三十代目(結果からいうと日本の近代史最後)の海軍大臣として、白い夏軍装で登庁してきた。
八月五日、次官として海軍省に着任した井上中将は、戦況説明を聞き、電報綴りを見、江田島では分からなかった国内の実情を知って、米内とまったく同じ感想をいだいた。
「
もはや日本は負けるに決まっていますが、私の想像していた以上に現状がひどい。
一日も速く戦争終結の工夫をしなくてはなりません。
そのために、今から私はいくさをやめる方策の研究を内密に始めますから’、大臣かぎり御承知願います
」
と、米内に訴えた。
米内の諒承のもとに、井上の密命でその「研究」の主務者を命ぜられた高木惣吉少将が「軍令部出仕兼海軍省出仕海軍大学校研究部員次官承命服務」という奇妙な辞令をもらい、病気療養を口実に伊豆へ引きこもってしまうのは、昭和十九年の九月中旬である。
「一億総玉砕本土決戦」を唱えている陸軍をだますには、先ず部内からだましてかからなくてはならなかった。
ある晩、例によって出陣司令官の送別宴のあと、飲みなおしの席で米内が
「君たちは東京にいて、今、米の配給何合何勺か知っているか」
と聞いた。
誰もこたえられなかった。
「六十歳まで二合三勺、六十以上は二合一勺」
米内ははっきり数字を挙げ
「僕は配給以上の米は食べていないよ」
と言った。
家で配給以上の米を食わないのは事実だが、好物の酒となると話が別のようであった。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
_