2009年2月2日月曜日

背負い水:喰えない話:荻野アンナ


● 1991/08


☆背負い水

 過ぎ去ったことしか美味しくない。
 過ぎ去ったかたちしか喉を通らない。
 年を重ねるごとに「今」の生々が耐えられなくなっていく。
 今は昔。
 「今」は「昔」の化身なのだと自分に言い聞かせる。
 思い出の楽園で記憶を思う存分ひづめて撓めて遊ぶのだ。

 「何、その背負いなんとかって」
 日本のどこやらの地方に「背負い水」という言い方がある。
 人間は皆、一生飲む分量の水を背中に背負って生まれてくる。
 これを背負い水という。
 これがある間は寿命がある。
 飲み尽くしてしまうと後が無い。





☆喰えない話

 暇はあっても金はない。
 贅肉あっても貯金がない。
 年はくっても甲斐性なしで、男がない。
 すがすがしいなあ、こういうのを
 「清貧」
というのだな。

 やるきのない生徒を前にして、生徒よりもっとやる気のない自らを発見して落ち込み、
 それでもお給料分は教育活動に精を出し、
 東に外人観光客あれば飛んでいって通訳させていただき、
 気がつけばやっていることはホステス幇間芸で、
 西に引き受けてのない翻訳あれば飛んでいってやらせていただき、
 頭の悪い作者の書いた原文を、もっと頭の悪い訳者が訳して意味不明の「無国籍日本語」に仕上げるという無残な結果となり、
 期限に泣き、
 低賃金重労働に泣き、
 たまに発掘した三十代独身男性はホモだったり独身主義者だったりマザコンだったり、その全部だったり、
 こうしてわたしは「オバサン」になっていく。

 わたしの神経の根っこのところに、「盲魚」のような頼り無い生き物が一匹寄生している。
 あたりまえのことだが毎日、朝、起きる。
 起きたくなくても、生きていれば眼のさめる一瞬は必ず来る。
 時間の許す限り、瞼を閉ざして死んだふりをしている。
 毎日毎日、今日一日を生き切る自信がない。
 起きてゴハンを食べねばならない、と思っただけで気が重い。
 電車に乗らなければ、お思うと眩暈がする。
 仕事せねば。
 やらねば。
 食べねば。
 ばったりと人と出くわす。
 微笑まねば。
 頭を下げねば。
 立ち話をせねば。
 日々の暮らしのデテイールの一つひとつが積み重なって、その一日分の総量が、わたしにはチョモランマより高く、小錦よりも重い。

 平均寿命の年齢が来るまで、毎日こうやって
 「小錦しょって、チョモランマ登頂」
を繰り返すのか、
と思ったとき、濁った哀しみがふつふつと、胸の底から湧いてくる。
 この哀しみのニゴリ酒を主食にして、盲魚は生きている。
 
 ここ数日の慢性的な空腹感がじわじわと胃から大脳へと攻めあがって、何かと怒りっぽくなってきたのである。
 一日一回でいいから、お腹の皮がぱんぱんに張って動けない、あの、めくるめく
 「私腹の至福」
を味わってみたい。

 「おねげえでごぜえますだ、お代官様




 ところでこの方、著者紹介にあるように、パリ大学の文学博士。

 なるほどとおもうのが「背負い水」。
 この本には背負い水を含めて、4本の作品が入っている。
 最後が「サブミッション」
 なんとこれ、プロレスが背景テーマ。
 「博士とプロレス」
 まるで似合わない。
 しかるに、この人のプロレス知識、並じゃない。

 サブミッションにこういう一節がある。

 彼のいる国には2種類の国民が住んでいる。
 「やんごとない方々」と、「やんごとなくない人々」である。

 この博士、ということは「やんごとない方」でありながら、
 「やんごとなくない人々」をテーマにして小説を書いている。
 そして、これがもろに「やんごとなくキマッテいる」
 まるで、脳天落としの必殺ワザ、スープレックスのように。

 「博士の愛したプロレス」だろうか。







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