● 1998/10 暮らしの手帳社
『
「どじょう」と書くより「どぜう」とした方がうまそうに感じられるのは、浅草の<駒形どぜう>が肉太の字でどぜうと表記していることに、おおいにかかわりがある。
発音のほうも、「DOZEU」とわざといって、にんまりしたりしている。
どぜう。
忘れているようで、決して忘れていないおいしいもののひとつである。
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田んぼから台所へ直行してきたどぜうは、当たるべからざるいきおいで、深いバケツの中を、しきりに上下する。
いっせいに上下するから、黒いクス玉が割れたり、戻ったり、黒い花火がひっきりなしに、はじけているぐあいだ。
ときおり白い腹をピカッと光らせる。
料理される前の、バケツのなかのどぜうは、思いきりにぎやかで、だから食べるのがかわいそうだ。
どぜうを煮る段になって、七輪にかかった鍋のフタを押さえるのは、たいていこどもの役で、私も木ブタを必死で押さえたものだ。
「どぜうがあばれるからね、頼んだわよ」
の母のひと声で、私は覚悟を決める。
最初、鍋のなかは妙に静かだ。
ほどよいぬくもりのなかにいるからなのだろうが、環境の激変に敏感な彼らが、いつまでものんびりしているはずもない。
七輪の火はいきおいを増してくる。
調味した汁のにおいが次第に強まる。
にぶい音が鍋の中から上がってくる。
ああ、どぜうたちがつらがっている。
鍋の中が再びひっそりと静かになるまでの数分間、複雑必死の数分間だ。
これがあるから、家庭でどぜうを食べるのは、おいしいと同時に、苦しいのだ。
プロのどぜうの扱いかたは違う。
生きたどぜうに、お酒をかけて、(駒形どぜう五代目渡辺繁三さんによると、一貫目のどぜうに日本酒二合の割合だそうだ)浮かれ気分にしたうえ、七、八分かけて酔わせてしまう。
渡辺さんによると
”その酔わせかげんがむつかしい。手で持ち上げてみて、頭と尾をだらりと下げるくらいが適当”
という。
まったく酔いつぶして仮死状態にしてしまったのではうまくないらしい。
どこかに正気を残しておく。
酒の力で、どぜうのくさみが抜け、同時に骨もやわらかくなるという。
お酒の力をかりるということを知らなかったから、私の家の台所は「どぜう」いうと、ひとつ覚えの覚悟は要った。
駒形どぜうでは、酔わせたどぜうをあらかじめ仕立てておいた甘味噌仕立ての味噌汁に入れて、強火で、三十分ほど煮込んだのを「どぜう鍋」にする。
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田んぼが変わってしまって、このごろ、どぜうは台湾あたりで育ててもらっているとか。
日本人が暮らしの底で育んできた蛋白源のひとつ”どぜう”を、このさきもいとしみたい
』
「あとがき」から。
『
「どぜう」の写真のときは、コンロの火が美しい赤朱におこるグッドタイミングをつかむのに、四時間も駒形どぜうのお店でカメラを構えさせていただいた。
このときにかぎらずどんな寒いときの取材でも、両カメラマンの顔といわずからだ中に汗が光った。
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すべての方々に、感謝の言葉をささげたい。
一九九八年夏 増田れい子
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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