2009年2月19日木曜日

:ファッションの誘惑


● 2001/02  草思社



 ファッションは美そのものとは違う。
 ファッションの急激な変化は衝撃的であっても、人間の美しさとはほとんど関係がない。
 ファッションはひとつの芸術形態であり、生き方をしめすものだ。
 ファッションには私たちの欲望が複雑に映しだされる。
 現代のファッションは手の届かない世界を感じさせるが、めざすは常に「今」である。

 デイズモンド・モリスは人間を「裸のサル」と呼んだ。
 だが同時に私たちは「服を着たサル」でもある。
 経済学者ソースタイン・ヴェブレンは1899年に著した「有閑階級の理論」の中で「衒示的消費」という有名な造語をつくりだした。
 すなわち、高価なものを集める嗜好である。
 服装は「衒示的余暇」をあかすものである。
 ヴェブレンのいう「余暇」とは、収入や役に立つものの生産にはいっさい無関係な活動を楽しむことを意味する。
 そしてステータスは「衒示的浪費」によってあらわされる。

 貧富の差は----やせている方が金持ちという可能性は高い。
 裕福な人たちはジムでトレーニング、専属トレーナーの指導、体脂肪吸引法、あるいは移植手術などで体を作り直していることが多い。
 裕福な人たちの体は維持に大金がかかっており、その効果が如実に表われている。

 もうひとつのきわめて現代的な現象が、スーパーモデルの台頭である。
 彼女たちは----極端に細い体を保つために、猛烈な努力が要求される。
 不摂生(麻薬・喫煙・摂食)なしに痩せるのはむずかしく、やせた人たちの多くが不摂生する。
 「お金と時間的ゆとりと強迫観念」が必要であり、自分の食べるものすべてを管理しなくてはならない。

 人は将来どんなものを着るようになるだろう。
 おそらくデザイナーのロゴはすたれるびちがいない。
 エリートのファッション界では、すでにロゴにたいする興味が薄れている。

 前衛的な服飾デザイナーのあいだで、新しい言葉が飛び交いはじめた----「
知性」である。



 「声、しぐさ、匂い、そしてフェロモン」より。

 昔の人びとは「美」を絶対的なものとして語った。
 しかし、私は文化の作用や神話の奥に、「現実的な美の核心」が隠れていると考える。
 「
文化はすべて美の文化」 であり、世界のどこでも美は強い破壊力をもち、感情を刺激し、注目を集め、行動を支配する。
 あらゆる文明が美をくつがえしては全力で追求し、その追及がもたらす喜悲劇を味わってきた。

 人工知能の世界的権威マーヴィン・ミンスキーは、美の体験は頭脳にたくわえられた「
否定的証拠」(してはいけないことに対する知識)の動きを一時的に停止させるとしている。
 美しいものを目にすると「評価、選択、批判を停止するよう」脳に信号が送られるという。
 美は「脳の判断に逆らう」ことを許される数少ない体験のひとつなのだ。
 美を前にすると批判的な頭脳がいっとき力を失い、人は内省したり、ほかのことを考えたりしなくなる。
 美に対する反応は脳の働きであり、深い思索にもとづくものではない。
 私たちの頭脳は、生存と繁殖にかかわる問題を解決するように自然淘汰によって進化してきた。
 美は「命を絶やさないための手段」のひとつであり、美に対する愛情は人間の生物学に深く根ざしているのだ。

 美をどのように考えるべきか、あるいはなぜ人間は美について考えるべきなのか。
 言ってみれば美はとほうもなく「不公平」だ。
 遺伝子の恵みなのだから。

 だが、こわがっていてもはじまらない。
 知識は力だ。
 人間の本質について深く知れば、それだけ不平等を指摘し自分たちを変える可能性も生まれてくるだろう。
 科学的な研究は、価値を定めることではない。

 美は消えてなくなりはしない。
 美はとるの足りないもの、あるいは文化がつくりあげたものという考え方は、まさに美の迷信だ。
 私たちは美を理解する必要がある。
 さもないといつまでも美に囚われるだろう。






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