2009年2月22日日曜日

:敗戦



● 1979/04 新潮社



 「一死以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル」
 という血に染まった遺書のほかに、割腹の直前、彼は
 「米内を斬れ」
 と、不思議な言葉を遺して亡くなった。
 

 陸軍大臣の背後には実戦部隊四百万の何も知らぬ陸軍将兵が、未だ未だ戦う気構えでいるんです。
 ひとくちに四百万と言っていますが、海軍と較べてまるっきり世帯の違うこの大武装集団を、ピタリと一つにまとめて終戦へもっていくには、想像以上に大変なことですよ。
 大陸戦線の陸軍なんか、事実負けていないんだから、急に敗戦とか降伏とか言われても、実感が伴わない。
 こういう時には、幾人か、芝居の原田甲斐のような人が出て、悪役を演じなければ事態は収まりません。
 阿南(陸相)さんは終戦のやむ得ないことをよく承知していながら、双方に対しわざと悪役になって見せたのではありませんか。
 そうして本土決戦を唱える陸軍の面目を立てて、最後は落ちつくべきところへ落ちつかせて、自分は自刃されたのだと思います。

 これは岡本功中佐の談話で----

 下村陸相は責任を感じるといって依願免官のかたちをとったが、米内は廃省に伴う自然廃官となった。

 海軍の解体にあたって、
 米内が保科善四郎に遺嘱した事項が三つある

第一は、聯合国側もまさか日本の軍備を永く
 完全に撤廃させておくとは言わないだろう。
 陸海軍の再建を考えろ。
 海軍に関しては、ほぼ日露開戦当時の三十万
 トンか。
第二が、海軍にはずいぶん優秀な人材が集まり、
 その組織と伝統とは日本でも「最もすぐれたものの一つ」であった。
 先輩たちがどうやってこの伝統を築き上げたか、
 それを後世に伝え残してほしい。
第三が、海軍の持っていた技術を
 日本の復興に役立てる路を講じろ。

 第二の海軍の伝統を伝える課題では、青梅の奥、吉野村に住む吉川英治のところへ度々足を運んだ。
 戦争中、吉川英治は勅任待遇の海軍嘱託で、もしいくさに勝っていれば長大な海軍戦史を書くはずであった。
 「今すぐでなくてもいいですから、何とか海軍のよき面を後世に残す物語を」と再三再四頼みに行き、吉川の方も一時その気になっていたらしいが、昭和37年に無くなるまでは結局筆を執らなかった。

 高木惣吉少将は、東久爾宮(爾:アテジ)内閣の副書記官を最後に公職を離れ、戦史執筆の道に入った。
 米内井上の密命をうけ終戦の下工作をした海軍少将が、軍部政界裏表の真相を自己の見聞にもとづいて書いたものだから、言論界の一部では高く評価されたが、旧海軍関係者の間に
 「実戦にも出なかった奴がけしからん。高木斬るべし」
という声が起こって来、
 「矢があらゆる方面から飛んで来る」
ようになった。
 長井の海辺に井上成美を訪ねてその話をすると

 かまうもんか。
 自由な批判が無くして何が海軍だ。
 喉元過ぎれば熱さを忘れる。
 どんどん書け。
 今のうちに海軍の悪かったとこをどんどん書いとけ

 と井上が言った。

 将官級のA級戦犯ににつづいて、B級戦犯として巣鴨に入った人も少なくなかった。
 対米情報担当の実松譲大佐もその一人であった。
 法廷に立たされるかっての部下先輩同輩のため、弁護人をつけるにも、証人を上京させるにも、宿泊させるにも、相当の資金が必要だが、占領軍司令部が、彼らを公人扱いして、国費を使うことを許さなかった。
 再三交渉の末、被告の友人の個人的寄付なら受けてよろしいということになり、海軍は岡田啓介、野村吉三郎、米内光政の三大将を発起人に立てて、募金運動を開始した。
 予想以上の好成績で、全国から総額六、七百万円の金が集まったけれど、これにお礼のしようがない。
 一定額以上の人へ米内さんの色紙を贈って礼に代えようと------頼みにいくと米内は承諾した。
 それで、昭和二十一、二ごろ彼の筆を染めた「為万世開太平」という書がたくさん残っている。
 直接は終戦の詔書からの引用だが、宋の儒学者横渠先生張載の

 天地ノ為ニ心ヲ立テ
 生民ノ為ニ命ヲ立テ
 往聖ノ為ニ絶学ヲ継ギ
 万世ノ為ニ太平ヲ開カン

 が本来の出典だそうである。
 ただし、かってのの筆勢はもう失われていて、色紙の字がみな弱弱しい。




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