2009年11月30日月曜日
:死んでからも楽しい老人力
『
老人力とはまず、ボケですね。
ボケて名前を忘れたり、約束を忘れたりする。
忘れるけど、それで頭はかえって開かれるってこともあるんです。
なんていうか、警戒心がなくなってくるんです。
歳をとると頭のガードが緩んで、「もういいや」って感じになってくる。
すると、むしろ吸収がよくなって、逆に活性化する。
新しいものが入りやすくなる。
忘れることのしょうがなさ、と言うか、面白さと言うか。
もう見栄も体裁もいいやって感じになる。
若いころって、そういうものがいろいろ気になるものでしょう。
老人力で踏み込む世界というのは、次から次、死ぬまで未知の局面が現れてくるということでもあります。
けっこう新鮮な思いができるんじゃないかって気がする。
臨死体験じゃないけだ、ヘタすれば死んでからも楽しいんじゃないかって、なんて考えたりして。
老人力の極大は、死んじゃうことだから。
老人力を100%発揮したときは、この世のことはすべて忘れてしまうということ。
自意識っていうのは、ないと困るけれども、自意識過剰の空回りは健康によくない。
歳をとると鈍ってきて、オレってまたこんなことやってるぞ、みたいに自分を客観的に見る余裕が出てくる。
どこかで人間チョボチョボ、みたいに思っているんじゃないかな。
そのところはたぶん誰でも一度は通るんじゃないかな。
「ちょぼちょぼ」についても分かってくると、自分の限界が分かってくる。
面白いことに、限界がわかってからの方が、かえって自分のやりたいことができるようになったりする。
中年のころは、あれもできる、これもできるはずだって思っている。
ところが、現実は厳しい上に、周りを見渡せば、自分よりすごいことを、どんどんやっているやつがいる。
ああ、オレはこの程度のものだったんだって、がっかりする’時期がある。
自分が万能だと思っているうちは、足が地につかない。
それが自分の「ちょぼちょぼ」を知って、逆に無駄な力が抜ける。
限られた部分に集中力が発揮できるようになる。
その細かいところから逆に、面白さがどんどん広がっていく。
若い人たちは情報社会にひたってるんですね。
情報社会って、みんなケチがなるんです。
情報を全部抱き抱え込もうとするから、捨てられなくなる。
僕ももともとはケチなんだけど、老人力って、捨てていく気持ちよさを気づかせてくれる。
ボンボン忘れていくことのおもしろさ。
情報的にスリムになると、自分が見えてきて、もとのもとの自分がムキダシになってくる。
情報で身の回りをかためていると、情報が自分を支えてくれる代わりに、生(なま)じゃなくなってくる。
自分が何だか、干からびてくんですね。
だから、いまの人たちって、コツコツ情報をためこんで、けっこう苦しそうだったりするんです。
使い捨て文化とは違う意味で、情報はガンガン捨てていったほうがいいんです。
情報は、ドブに捨てる、宵越しの情報はもたねえ、みたいな江戸っ子老人力。
これいいねえ、江戸っ子老人力って。
テレビなんて、情報のゴミ箱ですよ。
ゴミの中にも、たまに掘り出し物はありますが。
昔は品格とか志みたいなものが尊ばれたから、計算で動くなんて軽蔑されることだった。
それがいまはなんでも「プラス志向」だ。
計算ずくでも何でも勝てばいい、みたいになっている。
計算だけが生きて、人が死んでしまったら、元も子もない。
自分の人生を楽しめるかどうか、だからね。
計算で果たして気分豊かに生きられるのかなって。
気品は捨てる潔さから生まれるんだと思います。
人間も同じで、お金持ちでカッコいい人はお金を超えている。
貧乏人でも気品ある人は貧乏を超えていますもん。
気品も老人力も同じです。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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