2009年11月30日月曜日

:死んでからも楽しい老人力


● 1999/02[1998/09]



 老人力とはまず、ボケですね
 ボケて名前を忘れたり、約束を忘れたりする。
 忘れるけど、それで頭はかえって開かれるってこともあるんです。
 なんていうか、警戒心がなくなってくるんです。
 歳をとると頭のガードが緩んで、「もういいや」って感じになってくる。
 すると、むしろ吸収がよくなって、逆に活性化する。
 新しいものが入りやすくなる。
 忘れることの
しょうがなさ、と言うか、面白さと言うか。

 もう見栄も体裁もいいやって感じになる。
 若いころって、そういうものがいろいろ気になるものでしょう。
 老人力で踏み込む世界というのは、次から次、
死ぬまで未知の局面が現れてくるということでもあります。
 けっこう新鮮な思いができるんじゃないかって気がする。
 臨死体験じゃないけだ、ヘタすれば
死んでからも楽しいんじゃないかって、なんて考えたりして。
 老人力の極大は、死んじゃうことだから。
 老人力を100%発揮したときは、この世のことはすべて忘れてしまうということ。

 自意識っていうのは、ないと困るけれども、自意識過剰の空回りは健康によくない。
 歳をとると鈍ってきて、オレってまたこんなことやってるぞ、みたいに自分を客観的に見る余裕が出てくる。
 どこかで人間チョボチョボ、みたいに思っているんじゃないかな。
 そのところはたぶん誰でも一度は通るんじゃないかな。
 「ちょぼちょぼ」についても分かってくると、自分の限界が分かってくる。
 面白いことに、限界がわかってからの方が、かえって自分のやりたいことができるようになったりする。
 中年のころは、あれもできる、これもできるはずだって思っている。
 ところが、現実は厳しい上に、周りを見渡せば、自分よりすごいことを、どんどんやっているやつがいる。
 ああ、オレはこの程度のものだったんだって、がっかりする’時期がある。
 自分が万能だと思っているうちは、足が地につかない。
 それが自分の「ちょぼちょぼ」を知って、逆に無駄な力が抜ける。
 限られた部分に集中力が発揮できるようになる。
 その細かいところから逆に、面白さがどんどん広がっていく。

 若い人たちは情報社会にひたってるんですね。
 
情報社会って、みんなケチがなるんです。 
 情報を全部抱き抱え込もうとするから、捨てられなくなる。
 僕ももともとはケチなんだけど、老人力って、捨てていく気持ちよさを気づかせてくれる。
 ボンボン忘れていくことのおもしろさ。
 情報的にスリムになると、自分が見えてきて、もとのもとの自分がムキダシになってくる。
 情報で身の回りをかためていると、情報が自分を支えてくれる代わりに、生(なま)じゃなくなってくる。
 自分が何だか、干からびてくんですね。
 だから、いまの人たちって、コツコツ情報をためこんで、けっこう苦しそうだったりするんです。
 使い捨て文化とは違う意味で、情報はガンガン捨てていったほうがいいんです。
 情報は、ドブに捨てる、宵越しの情報はもたねえ、みたいな江戸っ子老人力。
 これいいねえ、
江戸っ子老人力って。
 
テレビなんて、情報のゴミ箱ですよ。
 ゴミの中にも、たまに掘り出し物はありますが。
 
 昔は品格とか志みたいなものが尊ばれたから、計算で動くなんて軽蔑されることだった。
 それがいまはなんでも「
プラス志向」だ。
 計算ずくでも何でも勝てばいい、みたいになっている。
 計算だけが生きて、人が死んでしまったら、元も子もない。
 自分の人生を楽しめるかどうか、だからね。
 計算で果たして気分豊かに生きられるのかなって。

 気品は捨てる潔さから生まれるんだと思います。
 人間も同じで、お金持ちでカッコいい人はお金を超えている。
 貧乏人でも気品ある人は貧乏を超えていますもん。
 気品も老人力も同じです。







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