2009年11月14日土曜日

:議論好き


● 1985/03[1984/11]



 武士というのは、いわば誇りを背負って生きている。
 それを傷つけるものがあれば、相手が誰であろうと、屈するわqけにはいかない。
 損得や結果を考える必要もない。
 単純明快といえば、これほど単純明快なことはmない。

 議論好き、であることは、お国柄である。
 そのあたりが、薩摩や徴収との違いであり、(板垣)退助がとやかくいっても、いまさら改まるものでもない。
 薩摩人ならば、こんなふうに、喧しく議論しない、
 それに薩摩の言葉というのは、他国に比べて語彙が乏しく、議論に適さないところがある。
 大久保にしても西郷にしても、「かりに」とか「たとえば」というようなことは口にしない。
 これらの言葉は、議論を進める上ではかなり有用なのだが、薩摩人は仮定や比喩を好まない。
 彼らは
 「かりに剣をとれば‥‥」
 などとは言わない。
 剣をとるかとらぬか、二つに一つしかない。
 剣をとったらどうなるか、とらなければどうなるか、結果は考えない。

 長州人はやや違う。
 かれらの言葉は、議論するだけの豊富な語彙をもっており、その一方で、じゅうぶんに行動的である。
 しかし、薩摩のように、年長者が圧倒的な支配力を全員に及ぼすことはない。
 それぞれが独立している。

 土佐においては、まず理非が先に立つ。
 理由がなければ行動を起こさない。
 鳥羽伏見における容堂(山内)の態度がそうであった。
 容堂はあの一戦を私闘とみなし、兵を動かす理由がない、とした。
 容堂を織田信長に比していたが、そのあたりが信長に遠く及ばないところであった。
 革命が成立するかどうかの瀬戸際においては、理非は後まわしにすべきだったのだ。
 「勝てば官軍」なのである。
 しかし、理非が先に立つのは、決して悪いことではない、と退助は思っている。
 議員と言うのは、言論の府なのである。

 日本には、もともと演説によって自分の考えを多くの人に理解してもらうという習慣がなかった。
 それが広く行われるようになったのは明治になってからでえあり、しかも演説会の隆盛をうながしたのは、政府による新聞紙条例の制定からであった、
 反政府的な論説を掲載すると新聞はすぐさま発禁になった。
 そこで、反政府系の論客たちは、筆をとる代わりに弁舌によって政府を弾劾することになった。
 そうするしかなかったといってもいい。
 政府は民権運動に対する弾圧強化の一案として、明治13年に集会条例を公布した。
 政治結社、集会を届出制とし、屋内の集会についても警官を臨席させ、弁士の演説中止や解散の権限を与えた。
 「弁士中止!」
 と警官がどなれば、弁士は演上を下りざqるをえなかった。

 このあと板垣退助は気が遠くなるほど長生きをし、大正8年(1919)7月に83歳で没した。
 彼の死を報ずる新聞を読んだ人々も、まだ生きていたのか、と思ったものが多かった。









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