2009年11月29日日曜日

老人力:物忘れ・イズ・ビューテイフル:赤瀬川原平


● 1999/02[1998/09]



 歳をとって物忘れがだんだん増えてくるのは、自分にとって未知の新しい領域に踏み込んでいくわけで、けっこう盛り上がるものである。
 人生に突入し、幼年域--少年域--青年域、と何とか通過しながら、中年域からいよいよ
老年域にさしかかる。
 そうすると、いままでにたいけんされなかった「
老人力」というのが身についてくる。
 それが次第にパワーアップしてくる。
 がんがん老人力がついてきて、目の前にどんどん「
物忘れ」があらわれてくる。

 ボケの波は迫って来ている。
 名前を思い出せない、用事を思い出せない、日にちを思い出せない、ということが日常化してくる。
 
長老(ぼくはこの仲間<路上観察学会>ではそう呼ばれている)をボケ老人と呼ぶのはちょっとマズイな、自分たちも無縁ではなくなってきているし、みんなどうせボケていくんだから、もっと良い言葉を考えよう。
 ボケ老人というの何かダメなだけの人間みたいだけど、ボケも一つの新しい力なんだから、もっと積極的に、老人力、なんてどうだろう。
 いいねえ、老人力。
 「
老人力
 ということになり、人類ははじめて、ボケを
一つの力と認知することになったのである。
 
物忘れ・イズ・ビューテイフル

 もう何でも忘れてしもう。
 覚えるのはやめよう。
 老人力のパワー全開。
 いくらでも忘れ放題。

 老人力はエネルギーではあるけど。かなり複雑なエネルギーである。
 簡単にそれを手にすることはできない。
 命からがらたどり着いたフトンの上で、やっと手にいれることのできる秘密の力、とでもいうようなのが老人力というものだ。
 刑務所にいったり、離婚したり、倒産したり、夜逃げしたり、糖尿病になったり、肝硬変になったり、立ち食いソバを食べたり、立ち小便を他人に見られたり、とにかくありとあらゆる苦労の末にやっと手に入れられるのが「
老人」である。
 あ、老人か、なるほど恰好いいなあとかいって、5万円払って老人になる、というわけにはいかないのである。

 そういう貴重な得がたい老人力なんだけど、ひどくみんな嫌がられている。
 みんな物を忘れたり、ヨボヨボするのが嫌いだからである。
 みんな者を覚えたい、できるだけ情報をたくさん欲しい、と思っている。
 
老人力の特徴としては
〇 物を忘れる
〇 体力を弱める
〇 足どりをおぼつかなくさせる
〇 ヨダレを垂らす
〇 視力のソフトフォーカス、あるいは目の前の物の二重視
〇 物語の繰り返し
 などいろいろあるのだが、それをみんなが’嫌がる。

 とかく世間の風潮としては、
〇 物を覚えたい
〇 体力をつけたい
〇 足どりをしっかりしたい
〇 ヨダレを垂らさない
〇 視力ははっきり
〇 お話は簡潔に一度で
 ということをモットーにしている。

 いわゆる「プラス志向」ということだけど、プラスが全部プラスになるとは限らないのだ。
 老人力はプラス志向などでは決してつかめないものである。
 じゃ「マイナス志向」がいいかというと、これが難しい。
 プラス志向のまま早とちりして、マイナスに向かったものは、そのまま人生のどん底に落ちてしまう。
 これは「
プラスの悲劇」といわれている。





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