2009年11月22日日曜日

暴力のオントロギー:はじめに:今村仁司


● 1995/01[1982/10]



 力と暴力、戦争と闘争といった文化現象は、社会科学と社会哲学にとって避けて通ることのできない根源的諸問題である。
 それらの現象は、社会形成と「社会体」の運動や歴史の基礎にあり、逸脱的病理現象ではない。

 社会理論の構成が精緻に仕上げられていくとき、闘争現象は抹消されることがしばしばある。
 ひとたび理論構成の前提を問うとき(これが社会哲学の課題をなす)、この抹消こそがきわめて問題的となる。

 社会思想は、常に何らかの形で、既存の秩序から「はみ出る」要素を持つことによって、社会生活と実践にとっての意義を持つ。
 いいかえれば、直接的に可視的な空間を超え出る別種の空間を産出するのが、実践的な社会思想の課題であろう。
 この超え出た何ものかを「剰余」とよべば、この剰余空間こそ最も重大な社会的思想的空間となる。

 平和の可能性は、ひとたびは暴力と闘争と戦争という地獄のなかをくぐりぬける必要がある。
 平和の思想は、何よりもまず戦争の思想(戦争を考える)をもって始まる、とういうのはやはり真実であろう。

 社会の起源は、言語の起源と同じく、科学的には処理できない。
 われわれの考察は、よって経験科学的考察ではない。
 社会形成の「仮説的で条件的な推理」、つまりあえて言えば「思弁的」考察がわれわれの課題である。
 思弁的という用語は、ここでは肯定的に使用される。
 経験的な観察材料を基に理論を構成することは、いかに注意深く科学的手続きに則るとしても、つねに思弁的を免れるものではない。
 科学的認識の前提は、つねに「思弁的」性格を有する。

 社会理論を体系的に記述しようとするとき、どの論者も社会形成の原点に精細な工夫をこらす。
 この原点の考察を導く思考のタイプは「仮説的・条件的」な推理であるほかないのである。
 これを称して「思弁的」という。





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