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バタイユの普遍経済理論の枢軸は「過剰の理論」である。
バタイユは『呪われた部分』でこう述べている。
「
生命体は。地表のエネルギーの働きが決める状況のなかで、原則としてその生命の医事に要する以上のエネルギーを受け取る。
過剰エネルギー(富)は一つの組織(例えば一個の有機体)の成長に利用される。
もしも、その組織がそれ以上成長いないか、あるいは成長のうちにことごとく摂取されえないなら、それを利潤抜きで損耗しなければならない。
好むと好まざるとにかかわらず、華々しい形で、でなければ破滅的な方法で、それを消費しなければならない
」
別の言い方で、この論旨を補ってみると、次のようになる。
「
生命の最も普遍的な条件、つまり太陽エネルギーがその「過剰発展の根源」であるということだ。
太陽は返報なしにエネルギーを(富)を配分する。
太陽は与えるだけで、決して受けとらない。
太陽光線は地球の表面にエネルギーの過多を発生させる。
」
「呪われた部分」とは、この過剰(豊かさ)であり、それは奢侈的浪費の瞬間に明瞭に姿を現す。
過剰理論は二段構えになっている。
第一に、根源的過剰という意味での過剰概念がある。
それは太陽エネルギーの贈与である。
このレベルでの過剰は、アプリオリな過剰である。
あらゆる生命体は、ひたすら受動的に、与える者としての太陽から、過剰の富を受け取るしかない。
それは宇宙論的アプリオリである。
第二に根源的過剰を土台として、その上で展開する「過剰化-過少化」の運動がある。
過剰化とは、成長蓄積である。
過少化とは、成長蓄積で膨れ上がった過剰分を破壊し損耗することである。
本題から逸れるが大切なことなので繰り返す。
バタイユは『呪われた部分』の後半で、1960・1970年代でようやく気づかれだす地球人類の社会的・政治的危機の根元をえぐり出し、地球規模での財のトランスファー(先進国による後進国への援助の先取り)、つまり「贈与」政策を提起している。
当時、誰が「マーシャル計画」の背後にかくされている、普遍経済的贈与論の意味をバタイユ以上に気づいたものがいただろうか。
バタイユの考えでは、過剰蓄積分は歴史上しばしば大抵は軍事・戦争にまわされてきたが、現代ではそれは破滅となる。
それにとって代わるには、ムダにも思える宇宙競争でもやらせておいた方が危機を回避できる、といったところだろう。
1945年頃にバタイユが予感したことは、その後、国債規模で現実化した。
世界史はバタイユが描いた軌道を走った、とも言える。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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