2009年11月11日水曜日
:消え去りゆく武士道
● 2004/01[2003/09]
『
過去の日本は、まごうことなく武士が造ったものである。
彼らは「日本民族の花」であり、かつ根源でもあった。
天のあらゆる恵み深い贈り物は、武士を通してもたらされた。
武士は社会的に民衆より高いところに存在したが、民衆に道徳律の規範を示し、自らその見本を示すことによって民衆を導いたのである。
歴史の進歩とは「社会一般の間における生存競争ではない。社会の少数派が、大衆を最善の方法で導き、管理し、働かせようとする競争によって生み出される」と語っている(マロック:イギリス社会学者)。
この説の批評はさておき、この見解は、武士道のわが国の社会発展に貢献してきた事実によって十分に証明される。
武士道は、その生みの親である武士階級からさまざまな経路をたどって流れ出し、大衆の間で酵母として発酵し、日本人全体に道徳律の基準を提供したのだ。
もともとはエリートである武士階級の栄光として登場したものであったが、やがてそれは国民全体の憧れとなり、その精神となった。
もちろん大衆はサムライの道徳的高みまでには到達できなかったが、武士精神を表す「大和魂:日本人の魂」という言葉は、ついにこの島国の民族精神(エートス)を象徴する言葉となった。
宗教が「情念の影響を受けた道徳」(マシュー・アーノルド:イギリス批評家)に過ぎないとすれば、世界に武士道ほど宗教と同列の資格を与えられた道徳体系はない、といっていい。
大和魂はひ弱な栽培植物ではない。
自然に生える野生の草木であり、わが国固有のものである。
ヨーロッパ人はバラの花を賞賛するが、私たち日本人はそれを共有する感覚は持ち合わせていない。
バラには桜花の持つ「簡素な純真さ」に欠けている。
バラはその甘美さの陰にトゲを隠し、執拗に「生にしがみつく」。
まるで死を怖れるがごとく、散りは果てるよりも、枝にまとわりついたまま朽ちることを好む、かのようにである。
バラは華美な色彩と濃厚な香りを漂わせる。
いずれをとっても、桜花にはない特性である。
私たちの好む桜花は、自然のなすがままに、いつでもその命を捨てる覚悟がある。
けっして派手さを誇らず、淡い匂いは人を飽きさせない。
これほど美しく、はかなく、風の吹くままに舞い散り、ほんの一瞬、香を放ち、永久に消え去っていくこの花が「大和魂」の典型なのか。
日本人の魂はこのようにもろく、滅びやすいものなのだろうか。
武士道は、「無意識の抵抗できない力」として、日本国民の一人ひとりを動かしてきた。
王政復古の嵐と、維新回天の渦の中で、日本という船の舵をとった偉大な政治家たちは、武士道以外の道徳的教えをまったく知らない人々であった。
善きにつけ、悪しきにつけ、彼らを駆り立てたものは純粋で単純は武士道そのものであった。
ヘンリー・ノーマン(イギリス旅行家)は極東事情を研究し、さらに観察した後、日本がほかの東洋の専制国家と異なる唯一の点についてこう言っている。
「
人類が考え出したことの中で、もっとも厳しく、もっとも崇高で、かつ厳密な名誉の掟が、国民の間に影響力を及ぼした
」
武士道こそ維新回天の原動力だったのである。
「劣等国として見下されることに耐えられない名誉心」
これが日本人の動機の最大のものであった。
殖産興業という考え方は、そうした過程の中で、後から生まれたものである。
アメリカ的あるいはイギリス的様式のキリスト教は、たぶんにアングロ・サクソンの気まぐれや空想を含んでおり、武士道という幹に接ぎ木するにはいとも貧弱すぎる芽である。
歴史が繰り返されるならば、まちがいなく武士道は騎士道と同じ運命をたどるだろう。
騎士道は封建制から離れたのち、キリスト教会に引き取られて、新たな余命を与えられた。
が、日本の武士道にはそのような庇護する大きな宗教はない。
母体である封建制が崩壊すると、武士道は孤児として残され、自力で生きていかねばならない。
めざましい民主主義の抵抗しがたい奔流は、武士道の残滓を飲み込んでしまうほどの勢いがある。
武士道は知性と文化を独占的に支えた人々によって組織された特権階級の精神だった。
民主主義はいかなる形式、いかなる形態の特権階級も認めない。
現代の社会勢力は、狭い階級精神の存在を容認しない。
悲しいかな武士道の徳!
悲しいかなサムライの誇り!
武士道は、消えてゆく運命にあるのだ。
社会状況が大きく変わり、武士道に反対するばかりか、敵対するまでになった今日では、武士道にとって「名誉ある埋葬」を準備すべき時にきている。
人間の活力をもたらすものは精神力である。
武士道精神が死に絶えたわけではない。
見る目を持つある人たちには、それがハッキリみえるはずだ。
もっとも進んだ思想を持つ日本人の表皮をはいでみれば、そこにはサムライが現れるであろう。
キリスト教と唯物論功利主義は、世界を二分するであろう。
小さな道徳体系は、このどちらかに組み込まれて、生き残りをはかるだろう。
武士道はどちらにつくのであろうか。
武士道は確固たる教義もなく、守るべき公式もない。
一陣の風であえなく散っていく桜の花びらのように、その姿を消してしまうであろう。
が、その運命は決して絶滅するわけではない。
たしかに武士道は独立した道徳体系の掟としては消え去るであろう。
が、その力は、この地上から滅び去るとは思えない。
サムライの気概や民族の名誉の学び舎は破壊されるかもしれない。
その光と栄光は、廃墟を超えて生きながらえるであろう。
桜の花のように、四方の風に吹き散らされた後でも。
』
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