2009年11月12日木曜日

孤雲去りて:諫死:三好徹


● 1985/03[1984/11]



 諫死(かんし)とは、死を覚悟して主君を諌めることをいうが、厳密には二通りにわかれる。
 一つは、もしその諫死が主君の気に入らなければ、余計なことを言う奴だ、というわけで死罪を言い渡される場合。
 よほどの覚悟がいるわけだが、時によってはそこまでの処分を受けずに済むこともありうる。
 もう一つは、主君に苦言を呈し、もしそれが受け入れられなければ、自ら自決するのである。
 あるいは、受け入れられても、主君に対して非礼を犯したことを詫びて自決することもある。
 もっとも、諌言を受け入れるような賢明な主君ならば、
 「死んではならぬぞ」
 とあらかじめ制止しておくだろう。

 古来、諫死は数多く行われているように思われているが、実際にはさほど多くない。
 諫死は。武家社会のものであり、武家社会は鎌倉期以降に確立された。
 しかし、君臣関係に「忠」という硬直した考え方が導入されたのは、江戸期からである。
 それ以前の武家社会は、一種の契約関係であった。
 理非を問わず無条件で主君に従うことはなかった。
 気に入らなければ浪人し、別の主君を選んでもいっこうに構わなかった。
 二君に仕えず、などという、主君の側に一方的な都合のいい考え方は、幕藩体制を維持するためのものだった。

 諫死の実例としては、戦国時代、織田信長に死をもって諌めた平手政秀が有名だが、これは例外といってよいくらいなものである。
 あるいは長い武家支配の時代を通じて、ほとんど唯一の成功例かもしれない。

 秀吉の朝鮮出兵は、きわめて無謀なものだったが、諫死したものは一人もいなかった。
 徳川時代、たとえば綱吉の「生類憐れみの令」は、恐ろしいまでに残酷でこっけいな布告だったが、これまた諫死した老中も旗本もいなかった。
 本当に「忠」であれば、死をもって主君の愚かな行為をたしなめるのが本道である。
 だが、いかに愚劣な命令であっても、主君に従うのが忠という理屈で、むしろ保身のために使われた形跡すらある。
 要するに、家来たるものが自分の考えを主君に押しつけるのは正しくない、というのだ。
 諫死が、事実上は死語と化していたのは、こうした理由による。





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