2009年11月11日水曜日

:切腹


● 2004/01[2003/09]



 ミッドフォード(英国の外交官)によって書かれた「旧日本の物語」というものだ。
 彼はその中で、自分自身が目撃した処刑の例を次のように記述している。


 われわれ(七人の外国使節)は日本の検視役に案内されて、寺院の本堂へと招かれた。
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 不安と緊張のうちに数分が経ち、やがて32歳の貴品のある偉丈夫、滝善三郎が静かに本堂へと入ってきた。
 彼は礼装姿の麻の裃を着けていた。
 一人の介錯人と、金糸の刺繍のついた陣羽織を着用した三人の役人が彼に付き添った。
 
介錯という言葉は、英語の処刑人という語とは違う、ことを知っておく必要がある。
 その役目は立派な身分のある者が務める。
 たいていの場合は切腹を命じられた一族か友人によって行われる。
 両者の関係は受刑者と処刑人というより、主役と介添え役の関係である。

 咎人は威風堂々といった感じで高座に上がり、祭壇の前で二度礼拝すると、それを背にして赤い毛氈の上に正座した。
 三人の付き添い役の一人が、三宝を持って進み出た。
 その三宝には白紙で包まれた「脇差し」が載せられていた。
 脇差しとは、日本の短刀または匕首のことで、長さは九寸半、その切っ先はかみそりのように鋭い。
 付き添い役は一礼して、この三宝を咎人に渡した。
 滝善三郎はうやうやしく三宝を受け取ると、両手で頭の高さまで押し戴いて自分の前に置いた。

 再度、深々と礼をしたあと、滝善三郎は次のような口上を述べた。

 拙者は、ただ一人、無分別にもあやまって、神戸で外国人への発砲を命じ、外国人が逃げようとするところを、再び命じた。
 拙者いま、その罪を負いて切腹いたす。
 ご列席の方々には、検視の御役目御苦労に存じ候

 そういうと再度、一礼した。
 
 善三郎は裃を帯のあたりまでするりと脱ぎ、上半身を裸にした。
 慣例に従って、念入りに両袖を膝の下へ敷き、後方へ倒れないようにした。
 身分のある立派な武士は、前向きに死ぬもの、とされていたからである。
 善三郎はしっかりした手つきで、目の前に置かれた短刀を慎重に取り上げ、さも愛しげにこれをながめた。
 それは、しばし最後の覚悟に思いを馳せているかのように見えた。

 次の瞬間、善三郎は短刀で左の腹下に深く突き刺し、ゆっくりと右へ引いた。
 さらに、今度は刃先の向きを変えて、やや上に切り上げた。
 このすさまじい苦痛を伴う動作の間、彼は顔の表情ひとつ動かさなかった。
 そして短刀を抜き、身体を少しばかり前方に傾け首を差し出したとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。
 が、声はまったく立てなかった。
 そのとき、咎人のかたわらに身を屈め、事の次第を終始見守っていた介錯人が立ち上がり、一瞬、白刃が空を舞ったかと思うと、重たい鈍い響きとともに、どさっと倒れる音がして、首は胴から切り離された。
 目前のもはや動かない肉塊から血潮の吹き出る音だけが、静寂を破っていた。

 介錯人は低く一礼し、用意していた白紙で刃の血を拭うと、切腹の場から降りた。
 血塗られた短刀は、処刑の証拠としておごそかに運び去られた。
 検視役が座を離れ、われわれが座っているところに近づき、滝善三郎の処刑の儀式がとどこおりなく遂行されたこと検分あれ、と申し述べた。
 儀式はこれにて終わり、われわれは寺を去った。









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