2009年11月11日水曜日
:武士道の源
● 2004/01[2003/09]
『
武士道とは、武士の守るべき掟として求められ、あるいは教育された道徳的原理である。
それは成文法ではない。
せいぜいのところ口伝で受け継がれたものか、著名な武士や学者の筆から生まれた、いくつかの格言によって成り立っていることが多い。
いや、それはむしろ不言不文の語られざる掟、書かられざる掟であったというべきであろう。
それだけに武士道は、いっそうサムライの心の肉襞に刻み込まれ、強力な行動規範としての拘束力を持ったのである。
また、武士道は、いかに有能な武士であったとしても、その人、一人の頭脳が創造したものでもない。
あるいは特定の立派な武士の生涯を基にするものでもない。
それは数十年、数百年もの長きにわたる日本の歴史の中で、武士の生き方として自発的に醸成され、発展を遂げたものなのである。
武家や武士(戦う騎士)は特権階級であって、元来は戦闘を職業とした猛々しい素性だったに違いない。
この階級は、長い年月にわたって続けられた戦乱の世にあって、もっとも勇敢で、もっとも冒険的な者の間から自然に選びぬかれ、臆病者や弱い者は捨てられていった。
やがて彼らは支配階級の一員として、身に付ける名誉と特権が大きくなるに従い、それに伴う責任や義務も重たくなってきた。
それと同時に、彼らは行動様式についての共通の規範というものが必要になってきた。
年を重ねるに従い生活範囲が広がり、人間関係が多方面にわたってくると、当初の信念はそれ自身を正当化し、満足させ、発展させるために、より高き権威や合理的な支持を求めるようになる。
もし、武士が殺し合いの軍事的なものだけに頼り、より高き道徳的な拘束力なしに生きたとするならば、武士の生活の中に、武士道なる崇高な「道徳律」は生まれなかったであろう。
まず仏教から論じよう。
仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心を与えた。
それは危難や惨禍に際して、生に執着せず、死と親しむことであった。
「禅」とはデイアーナ(Dhyana)の日本語訳であり、それは
「言語による表現を範囲を超えた思想の領域へ、迷走をもって到達しようとする人間の努力を意味する」(ラフカデイオ・ハーン「異国的なものと回顧的なもの」より)。
その方法は座禅と瞑想であり、その目的は私の理解する限りでいえば、あらゆる現象の根底にある原理について、究極においては「絶対」そのものを悟り、その「絶対」と自分を調和させることである。
このように定義すれば、その教えは一宗派の教義を超えている。
この「絶対」を認識し得た者は誰でも、世俗的なことを超越して「新しき天地」を自覚することができる。
仏教が武士道に与えられなかったものは、神道がそれを十分に補った。
忠誠、尊敬、孝心などの考え方は神道の教義によって武士道へ伝えられた。
それによってサムライの傲慢な性質に忍耐心や謙譲心が植えつけられた。
神道の理論にはキリスト教でいうところの「原罪」という教義はない。
むしろ逆に、人間の魂の生来の善良さと、神にも似た純粋さを信じ、「魂」を神の意志が宿る「至聖所」として崇めている。
神社にはその礼拝物がきわめて少ない。
奥殿に掲げられている「一枚の鏡」だけが主要なものである。
なぜ鏡だけなのか。
すなわち、鏡は人間の心を表している。
心が完全に平静で澄んでいれば、そこに「神」の姿を見ることができる。
古代ギリシャのデルフォイの神託、「汝自身を知れ」に通じるものがある。
国民の崇敬と民族的感情の枠組みとなっている神道は、体系的な哲学や合理的な教義を装うようなことは決してない。
神道は信者に、何の信仰上の約束も命じない。
直截で単純な「行為の基準」を与えたにすぎない。
武士道は、道徳的な教義に関しては、孔子の教えがもっとも豊かな源泉となった。
君臣、親子、夫婦、長幼、朋友についての「五倫」は、日本人の民族的本能が認めていたもので、中国からもたらされた儒教の書物は、それを確認したにすぎなかった。
冷静で穏和な、しかも世故にたけた孔子の政治道徳の教えは、支配階級のサムライにとっては、とりわけ相応しいものであった。
孔子の貴族的で保守的な教訓は、武士階級の要求に、著しく適合した。
儒教では人間と宇宙はひとしく精神的かつ道徳的なものであるとされた。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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