2009年11月24日火曜日

だからこうなるの:我が老後:佐藤愛子


● 1997/11



 原稿のつづきを書いているうちに深夜になった。
 雨はまだ降り続いていた。
 夜半過ぎ、庭でどさっと物の倒れるような音がしたが、気に留めずに仕事をつづけた。
 こういう時、たいていの人はすぐに見回りに出るらしいが、私はいつもほうっておく。
 夜盗のたぐいであれば、そのうち家の中に入って来るだろうから、その時に対応すればよい。
 賊と戦って勝てばそれでよいし、負けたら負けたでかまわない。
 そのときの気運に任せるのがよい。
 人生73年生きたのだ。
 たいていのことは経験してきた。
 おかげで欲しいものも、楽しいこともない代わりに、怖いものもなくなった。
 来るものは何でも来たらええ-----
 そんな気持ちになってしまった今日この頃なのである。

 「この節は新聞も雑誌も低調ですね。読みたいというものがないわ」
 などとえらそうに言っているが、読みたいと思わないのは記事が低調なためではない。
 活字が見えにくいため、読みたいと思わなくなっているのだ。
 「ものいわぬ婆アとなりて年の暮れ」
 という趣になり果てるのであろう。
 呉服屋がやって来て例によって反物見世を広げる。
 ああいい色だ、いいデキだ、とつい手に取るが、すぐ思う。
---どうせそのうち死ぬんだ。
  買ってもしょうがない-----
 「白内障の手術は簡単ですよ」
 と手術を勧められる。
 だが思う。
---あと少しの辛抱だ。
  そのうち死ぬ-----
 手術のために時間とお金を使っても、まもなく死んではつまらない。

 私には40代の頃から「これでなければイヤ」という口紅がある。
 だがその口紅は日本橋の高島屋へ行かなければ売っていないので、出不精の私は2年に一度か、3年に一度、2,3本まとめて買うのを常としていた。
 今、使っているものは何年前に買ったものか忘れたが、最後の1本が大分減ってきている。
 たまたま高島屋に用があって出かけ、そのことを思い出した。
 そうだ、ついでに-----と思って売り場に行き、今までのように2本ください、と言いかけて、待てよ、1本でいいかと思いなおした。
 2本買っても残ったらもったいない。
 1本にしておこうか?
 しかし、と考えた。
 今、使っているものが半分と少しある。
 それを使い切るまで様子をみたほうがいいんじゃないか?
 「あッ、ごめんなさい。ちょっと」
 と言って私は売り場を逃げ出した。
 なにが「ちょっと----」だ、と思いつつ。

 この話を聞いた人はほとほと呆れ果てた、といわんばかりに、
 「どうしてそう、
ケチなんですかア」
 とため息をついた。
 うーん、やっぱりこういうのを「ケチ」というのかなあ。
 私としては「ケチ」というより「
死生観」と言って欲しいのだが。

 桃咲いて爺イなかなか死にもせず    紅緑

 死ぬ死ぬという奴ほど長生きをする、と誰もが言う。
 こんなに死ぬことばかり言いながら、「婆ア、なかなか死にもせず」と言われることになるかもしれない。







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