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重要なことは「テキトー」である。
テキトーであることが、ぼくらを根村してくれて、物忘れを実現してくれる。
では、そのテキトーとはなんなのか。
どう定義すればいいのか。
これが難しい。
定義するとは、テキトーを排除することである。
だから、テキトーを定義するとなると、テキトーがなくなってしまう。
困りましたね。
でも定義しよう。
テキトーとは「反努力」のことだ。
眠る、忘れるということは反努力の力である。
そういう努力しない力というのが、この世のどこかにあるはずなのだ。
この反努力という力というのが、老人力の実体ではないのか。
昔は学校に行かずに働く子を可哀想だといった。
いまはむしろ働けずに学校に行っている子が可哀想。
昔は可哀想だった売春が、いまやそれ自体がファッションになっている。
この時代に、一元的な努力のとどく範囲は知れている。
反努力を現実の問題として考えないといけないんじゃないだろうか。
いまの世の中は自力思想というか、自主独立というか、個人の自由というか、とにかく「自」というものが正義のシンボルになっている。
独自の考えで、自由な発想で、ということをすぐに言われる。
自分がちゃんとある人は、それでもいい。
でも大方は自分が大してない人であり、そんな人が「自由」な発想でやると、単にめちゃくちゃになるだけである。
人間の頭というのは、いったん「主義」に頼ると、その主義以外は判断停止の状態に陥ってしまう。
おしなべて、自分なんてちゃんとしていない人が世の中には多い。
それがほとんどだ、といっていい。
本当は、「他」にまかせないといけない、ことが多くあるんだけど、それを逆にこの世の中の自由主義というものが許さない。
というわけで世の中、とんどん自由主義のパワーで硬直化していってしまう。
老人力の場合はあくまで微弱な現象である。
まあ、老人力というのはその程度のものである。
複雑系というこのところ脚光を浴びてかけている学問がある。
そこで東大の先生のところに取材にいったが、チョットしたこと、取るに足りないこと、を問題にしていた。
もっとも何でも、新しい物や新しい考えというのは、ちょっとした取るに足らないことからはじまる。
ふとした考え、ふとした出合い、取るに足りない冗談から、大発見大発明が生まれたりする。
これは人間の頭のクセにかかわることで、
「人間の頭というのは、いつも最上の一つの考えにたどりつこう」
としている。
だからいつも撮るに足らぬ考えが、下の方には無数に堆積しているのだ。
最上の考えが崩れさえすれば、その先にいくらでもフッとした考え、フッとした出合いが待ち構えている、はずなのだ。
世の中にはわからないことが、たくさんあるのである。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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