2009年11月29日日曜日
:脳社会における死に至る寿命
● 1999/02[1998/09]
『
世の中これからどうなるのだろう。
文明の発達はいいのだけれど、すべてが計算され、管理され、平均化され、ツルピカになり、その先にあるのはもう退屈だけだといわれていある。
いままで
文明の発達を望んで、
民主主義を望んで、
自由を望んで
努力してきたのに、その望みが実現した先に町かめていたのが「退屈」であるとなると、いったいどこで間違ってしまったのか。
望みを持つ、ということそもそもが間違いだったのだろうか。
人間の世なんて、いつも不完全なものだから、それを何とかしようと望みを持つ。
努力して、運にも恵まれたりすれば、望みがかない、そうすると次は退屈地獄。
いや退屈天国に落ち込むんだとなると、人生とはいったいナンなのか。
あまり哲学すると嫌われるけど、でも今の世の中、ツルピカの退屈に向けて進路をとっているのは間違いないだろう。
いったい、この先どうすればいいんだ。
こういう時、老人力が発見されて、この発見は人々に大喜びで迎えられた。
必ずしも望んだわけでもないツルピカ退屈気分が、老人力によってぼろぼろ削りとられた。
老人力なんてもともとは冗談なんだけど、老人力と聞いたとたん、みんな一気にそれを理解して冗談じゃなくなってしまった。
いやあくまで冗談なんだけど、冗談を保持したまま、冗談じゃない世界に突入していくという、ちょっと何といおうか、そういう風なのである。
そういうとても複雑系の冗談を、みんな一気に獲得する。
でも根が冗談という人はなかなか少ないもので、日ごろの暮らしはマジメ系で過ごすのが基本となっているのだから、理解はしたが応用はまだ、という場合が多い。
あぶないですね、老人力は。
甘く見てはいけない。
老人力はマイナスのパワーだとかいう逆説を楽しんだりするんだけど、非常に危険な力を含んでいる。
「死に至る病」とかいうけど、老人力というのは「死に至る寿命」である。
この危険を裏返しにして縫い付けているからこそ、ボケ味をはじめとする老人力は精彩を放つのだ。
老人力の探求は、実は大変なことで、命がけでボケているのだ。
「えーと、そうそう、あれですよ。ほら、あの、あれ‥‥‥」
といってなかなか名前が出てこないけど、名前は、命がけで忘却の彼方へ遁走しているのである。
いいですね、命がけは。
今の世は「脳社会」とかいわれて、どんどん論理におおわれてきている。
人々のそれぞれの感覚的思考が萎縮してしまって、
安いから、
得だから、
便利だから
というような論理だけで物事が進み、「隙とか嫌い」はとるに足りないものとして、どんどんゴミ箱へ放り込まれている。
なかなかうまくいえないんだけど、一つ一つの論理は正しい。
人権とか民主主義とか、いくつもの正しい論理がズラリと揃っている。
全部正しいはずなんだけど、その全体が、気がつくと、いつの間にか傾いている。
論理的には全部正しいはずの世の中の全体が、論理的には見えない落とし穴にズルズルと吸い込まれてはじめている。
でも幸いなことに、歳をとると人間には老人力がついてくる。
老人力がつくと、どうしても論理を支える力が抜けてくる。
「まあ、いっか‥‥‥」
という本音が。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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