2009年11月28日土曜日
:アッケなさの上にある人生に意味などない
● 1994/12
『
年寄り連中が食い物にこだわって、あれが食べたい、これが食べたいっていう気持ちがよくわかる。
「その楽しみしかなくなる」し、それだけを頼りにして、生きていけるんだ。
なんだね、余分な金はいらないけれど、歳をとったとき、食いたいものを食えるだけの金を用意しておかないと、まずいかもしれない。
ガキみたいなことを言うけどさ、
「人生ってなんだろう」
て感じるね。
そして、「なんの意味もない」ってことがよくわかる。
事故のまんま死んでいれば、日々に疎くなっていく、間違いなくね。
いや、非難しているんじゃなくて、人間ってそいうもんだから’。
死んだヤツにいちいちこだわり続けていたら、ニッチもサッチもいかなくなるぜ。
しかも、死なずに済んで、こうやってベッドに寝ながらあれこれ考えていて、今までの人生、何が楽しくて、何は大切で、何に執着してきたのか、まるで分からない。
あってもなくてもよかったものばかり、そんな気持ちになってしまう。
どれもがゴミと泡みたいなもんんだよ。
人生、何ものこらないな。
いろいろ忙しくやってきたけど、単なる人生の騒ぎに乗っかって、乗っけられてきただけのような気がするの。
ちょっとは立ち止まって、考えないと、まずいよな。
どうもね、妙な感覚なんだけど、瞬間瞬間に世界が生まれていて、前の瞬間の世界と、次の瞬間の世界とは、必ずしも繋がっていない、瞬間瞬間に別々の方向に世界が続いているんじゃないかって思うことがあるんだ。
瞬間瞬間に泡のように無限に世界が生まれている。
それをたまたま無意識で’選んで、結果、今の世界が目の前にあるってことのような気がする。
別の世界で、別のオレが何をやってるんだろう。
あれだね、人生ってのは、そういう瞬間の数珠つなぎのようなものなんじゃないかな。
『だからどうした』
と突っ込まれると、返す言葉はないんだけど。
まあ、そういう感覚ね。
この日の夜に見舞ってくれた友人が、オレの話のメモを」残している。
「ガキみたいなこと言うけど、お釈迦様とかキリストの言葉をジックリ読んでみたいね。
オレの生きる目的っていうのは、つまるところ、どういう風に考えたらいいんだろう。
オレが生き残ったのも、あるいは死んでいたかもしれないのも、ほんの気まぐれで決められている。
それは否定しようがないよね。
そういう「アッケなさの上にある人生」ってやつに、本質的な意味を求めていいもんだろうか、って思うんだ。
飯を食って寝て、一日が終わり、そうして寿命が尽きるまで、ただやり過ごす、動物のような生き方が本質なのかもしれない。
病人として入院しているのが、芝居の役をやっているだけだって感じがしてさ。
どうも、リアルなものに思えないんだ。
こんな体験したんだから、退院したら、今までとは違う生き方を少しはやりたいと思うけど、それが何であるのか分からない。
この先、日本ではどんどん年寄りが増えて、しかも長生きしたいっていう連中ばかりでさ。
そんな「長生き自慢の動物」があふれかえったらどうしようもないよ。
自分の健康に、異常に気を使っているヤツが多くてさ、どうして、もっと
「死ぬことを考えないのだろう」。
右上がり神話は崩壊したっていうのに、
「寿命だけは右上がりだと信じているヤツ」
がいっぱいいる。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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