2009年11月28日土曜日
:動物としての人間
● 1994/12
『
一番なさけなかったのは、尿道に管を突っ込まれて垂れ流し状態を続けたというのが、どうにもならない。
これ情けない。
自分の排泄物まで他人に管理されてしか生きられない、っていう事実に圧倒されたよ。
ほんとうにどうにもならないんだもも。
顔がどうなろうとも、とにかく「歩かせて欲しい」って言ったんだ。
二足歩行をはじめれば、他のことはどうにでもなるって思ったんだ。
野生というか人類が歩き始めた頃というか、要するに動物そのものに。
傷ついたライオンが餌にありつけず、結局ほかの動物に倒されて、その餌になっていくわけで、それが自然界の掟であって、例外はない。
オレもその例外じゃない。
人間の体はそういうもんだ。
死んだり身障者になったりしても、じつに自然なことじゃないか。
野生ってのはそういうことだ。
いまの時代、医療技術が発達しているから、オレも怪我ぐらいはちゃんと治してもらえるわけで、それはすごくありがたいことなんだけど、精神的にはとても辛いことだったね。
人間、歩けず動けずっていうことは決定的にピンチだよ。
カミさんに食い物を口に入れてもらったことあるけど、こんなことしていたら駄目だって、生理的に感じたね。
人の力でものを食わせてもらっているのは「動物じゃない」よ。
自分で生きるための糧を、自分の力で運べなくなったら終わりだよ。
自分で食って自分で排泄する、これが「動物としての人間」の条件だと思う。
動物としての人間が根本だとして、自分の力で食べて排泄して歩く、これが三大条件だ。
それが満たされないと、意識とか意志とかが、動き回る余地がない。
人間らしさがのっかている基盤が失われてしまうと思うね。
辛いといえば、点滴にはどうしても馴染めなかった。
薬も含めて栄養を点滴で入れているんだけど、これはどう考えても「人間的でない」んだよ。
点滴している姿って、動物として不完全なヤツってこと。
つまりさ、点滴しているってのは、それをしないで放っておくと死んでしまうぞ、ということと同じだ。
やっぱり、生命力が駄目になった動物は死んでいくべきだと思うね。
日本のような先進国の人間は、医学の力で死んで当然なところを生かしてもらえるわけだ。
どうもそのへんが納得できない。
傷ついたライオンに点滴してやって、
「お前はまだライオンだ」
と言ってやったって、それはもうライオンじゃないよ。
「寝たきりライオン」とか聞いたことないぜ。
いくら文化というクッションが人間を支えているにしろ、やっぱり自分で歩いてエサをあさるという基本形を忘れてしまうのは、人間でも辛いものがあるよ。
だけど、そういう強がり言っても、いずれは点滴様におすがりすることになるわけで、ほんとの最期は弱ったもんだと思うけど。
誰にでも、もうすぐ、そういう時期が来るんだから。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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