2009年11月23日月曜日

:謎としての貨幣


● 1995/01[1982/10]



 人類の生活史のなかには、今でも解き明かされていない数々の謎がいっぱいある。
 なかでも貨幣は最大の謎のひとつである。
 どのような意味で、貨幣は人間にとって謎なのであろうか。

 金であれ紙幣であれ、貨幣は日常的には交感手段や計算基準の役目を果たす。
 なぜそんな役目があるかといえば、貨幣があらゆるものと交換可能だからである。
 なぜ貨幣はあらゆるものと交換可能なのであろうか。
 ここまでくるとナニが何だか分からなく。
 貨幣とはそういうものだ、というしかない。
 いろいろ解釈が出されているが、つまるところはもっともらしい経済学的解釈でしかないのである。

 貨幣は原則としていつでもあらゆるものと交換可能であるという特質をもっている。
 いったいどうしてこんな神のごとき能力を貨幣がもっているのであろうか。
 貨幣の万能性はモノから来るのではなく、人間の社会関係から来ると考えるのが筋道である(金貨ならまだしも実物主義で処理できるようにみえたが、紙幣では実物で説明できるものではない。一枚の紙からどうして万能性が出てくるのか)。
 貨幣の力が人間の社会関係から出てくるという点に、「記号としての貨幣」、「貨幣の記号性」がある。
 「記号」は何事かを指示するだけでなく、「何ごとかの意味」を表す。
 だから貨幣も、商品の価値を指示するだけでなく、価値現象の社会的意味をも表現しているのである。

 価値現象は決してモノから発生しない。
 価値とは、すぐれて人間的現象である。
 価値現象は、一人の人間からは決して生まれない。
 人と人との関係、あるいはコミュニケーションからのみ価値現象は生まれる。
 価値とは社会関係に固有のもの、社会関係があってはじめて生まれる独特の現象なのである。
 この価値を代理的に表現するものが、社会関係を律するものとなる。
 社会関係は必ず価値を発生させ、同時に価値によって支配される。

 コミュニケーションの最も恐るべき実態は次のように定式化される。

 共同体の全員が心をひとつにして(心を鬼にして)、ただ一人(一つ)のものを排除すること。

 こうして排除されたナニものかと、それが生きる空間が、第一次的には「けがれ」の存在と空間である。
 この排除空間は、共同体の「内なる外」の空間であって、共同体の排出するすべてのケガレ(エントロピー)を吸収してくれる。
 排除空間を作れない社会関係は、社会関係でありえない。
 近代マーケット・システムの貨幣メカニズムは、排除空間の設定を絶妙な合理性をもって実現したともいえよう。
 貨幣は近代経済の中でも、単なる交換手段ではなく、なによりも社会に内在する「けがれ」を吸収し、解消する空間なのである。
 不可視の排除空間であることこそ、近代貨幣の本質なのである。

 近代社会は、以前のどの社会と比べてもたとえようもない莫大な過剰欲望とエネルギーを生み出している。
 また、それに応じて莫大なケガレも生み出している。
 これらの過剰分を何かが吸収し、これらのケガレを何が吸収し、流してくれるのか。
 それは、貨幣以外にはない







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