2009年11月30日月曜日
:地球のボス、アメリカには老人力はない
『
お茶の世界で、「侘び」とか「寂び」とかいう言葉がある。
作りたての新品ツルピカではなく、長年使われて、少し壊れたところが補修されたり、少し汚れがついたり、染みが広がったりして、えもいえぬ味わいが生まれる。
日本的な美の感覚というか、美意識というか、あれは実は老人力だと気づいて、なんーだと思った。
物体に味わいをもたらす力というのは、物体の老人力なのである。
とすると、老人力というのは日本文化そのものだ。
老人力のはじまりは70年代の温泉ブームあたりからで、その後に骨董ブームとか競馬ブームとかになり、そのリーダーであるギャル層にしみ込み、「おじん趣味」と命名された。
世に言う「おじんギャル」である。
これが世間一般の体内に深く発した老人力の、まだその名も持たぬ受胎告知であったのだろう。
おおよそ6,7年前にということになるのか。
世間一般のギャルが老人力を受胎したのである。
老人力のはじまりは70年代の温泉ブームあたりからからかと思ったが、とんでもない、実は桃山時代まで遡るのだ。
人間のボケ味とも言われる老人力は、古来営々と日本文化の底流として流れ続けていたのである。
老人力というのは人間に広がるだけでなく、物体にも作用する。
長年愛用しているシャープペン。
指の当たるところがだんだん艶アリになってきて、ルーペでのぞくと極細のひっかき線のザラ目で艶消しのところが、長年の指の辺りで擦り減り、このザラ目が消えかけているのだ。
物体にも老人力がついてくるのだ。
マイナスの力が作用し、それが独特の味わいになってきている。
老人力は「味わいを生む力」だということ。
だが、古くなってダメになれば、それはみな老人力、というわけではない。
古さゆえの快さ、人間でいうとボケ味、つまりダメだけど、ダメで終わらない味わい、というのが出るところが老人力だ。
このところは、アメリカ人には絶対にわからないだろう。
アメリカは老人力理解不能の国である。
若さとパワーだけを頼りの全員ライフルを片手に、ひたすら前のめりの一つ覚えでやってきた国だ。
いきなり
「老人力」
といわれても、え?、といって、キョトンとした顔しかできず、とりあえずライフルをぶっ放すくらいだろう。
日本も成金趣味というのはそういう風で、ちょっとでも古くなるとすぐ嫌う。
古くなって擦り減ったのは即、貧乏と考える。
古いのを貧乏と考える点で、非常にアメリカ文化だ。
特に戦後の特徴。
正しくは、明治以降か。
貧乏問題は一度考え直す必要がある。
貧乏はたしかにダメだけど、ダメな一方で味わいがある。
ということを主張するのは難しい。
みんな貧乏はキライで、金に目が眩むから。
「清貧」ということなら、アメリカ人も一応分かる。
だいたいの宗教は清貧はいいものだと教えている。
アメリカ人だって、物欲の後ろめたさが少しはあるだろうから、宗教から言われたら少しは耳を傾ける。
宗教というのは、いわば「あの世の税務署」だ。
あの世の税務署の出張所の、一種の予定納税みたいなもので、それをしないと地獄へいくから、アメリカ人といえども無視しにくい。
宗教に言われるから「「清貧」までは理解する。
でも、「侘び寂び」はムリだ。
アメリカ人は老人力はないけど、屈託がないし、やはりモノを持っているから人気絶大だ。
ぼくらの子どものころは、金に目が眩むというけど、モノに目が眩んで、ころっとアメリカバンザイになってしまった。
だが、いま地球のボスとなっているアメリカには老人力はない。
そのことに、自分に老人力がついてきて、やっと気がついた。
物体に老人力がついてくる。
茶碗や皿に老人力がついてくると、骨董と呼ばれはじめる。
アメリカにも骨董屋はあるのだろうか。
あることはあるが、それはみなネウチもののような気がする。
金で解決する、例えばトラの敷皮、象牙の何とか----。
ネウチ以外に面白みのないもの。
アメリカの骨董屋にはそれ的なものばかり並んでいるように思うが。
侘びた茶碗にしろ、侘びたペンにしろ、それはアメリカ人にいわせるとダメな茶碗、ダメなペンだ。
すぐにそれを捨ててしまうアメリカ人がいて、それをすぐ真似したがる日本人がいる。
いや、いてもいいんだけど、捨ててどうなる。
でもどの道、終末は近いのだ。
』
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