● 1994/12
『
今度の事故は、「変えろ」っていうお告げだよ。
オレからすべてが発していることなんだから、自分でケツを拭いていくしか方法がない。
お医者さんの判断を頼りに、オレの生活を変えてはいけない。
オレの勘でいくしかない。
そうやって、結果がダメだったら、「オレがそれだけのヤツだったってこと」さ。
もうね、オレ変わらないといけないんだ。
オレはあの事故で死んだって不思議じゃないんだ。
死んでいたと考えれば、この先、オレのやり方で通せばいいってことだね。
他人のいう通りにやったら、お終い(おしまい)ってことだ。
他人の言うことを聞いてだめだったらどうにもならないよ。
やり過ぎだったんだから、いい潮時だよ。
だからさ、手術はもうやらない。
現代的な大病院を患者としてみると、医療システムがものすごいほどの検査道具のアンサンブルだってことがよくわかる。
素人の考えでいうと、ほとんどの病院の人たちは、人間の意志力とか精神力とかを、最初から全く相手にしてないんだよ。
検査による分析データとその解釈によって治療するという方法論が、実に徹底して、個人の顔が違うように異なるはずの個体差とか気持ちの部分は相手にされないんだ。
それはどこの病院でもおなじだろうが。
大病院に入ったら、その瞬間に、先生に自分の体を預けちゃっているんだよね。
「お願いします」
なんだよ。
その時点でもう負けている。
病気になった個人なんて、病院という制度の前にはえらく弱いものなんだ。
「これ手術しなくちゃいけない」
って医者から’言われたら、答えは、
「はい」
しかないんだよ。
看護婦さんから、
「偏食して肉類食べていないから、タンパク質の上がりが遅い」
って叱られても、
「オレは今までこれで生きてきたんだ。
病院が勧めるものなんか食わねえよ。
じょうだんじゃない、それで死ぬならそれで’かまわない」
ってワガママを言えばいい。
それで死んだとしてもしょうがないだろう。
病院の中でも、どっかに自分を出して、自分の色をつけないと駄目なんだよ。
「全部よろしくお願いします」
ってのは対極的なものだ。
これはオレの持論だけど、オレは自分の色を押し通すんだ。
だから、手術は嫌だっていったの。
確かに普通は、1%の可能性にでも賭けて、
「何をやってもいいから、治してくれ」
っていうももかもしれない。
そりゃあ、オレだって、あんまり腹が痛くて、腹を切れば治るってのなら頼むけど、オレの顔面麻痺は痛くないし、普通の生活するに何の問題もないんだ。
オレが納得すればいいだけの話だから。
手術を決めるってことは、医者の先生が決定権を持つってことになるわけで、そんなことまで医者に主導権もたれたら、オレが駄目になる。
運よく生き残ったこの先の人生、それをどう生きるかは自分の意志が決めるもので、手術をどうするかってことに、オレの精神力がかかっていると思ったんだ。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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