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思想が偉い。
感覚よりも頭の方が偉いと思っていた。
これは若い頃の特徴ということもあるけど、時代の特徴でもある。
どのころかというと、ソ連崩壊以前の時代。
革命信仰とか、共産主義信仰の生きていた時代。
思想信仰が強くあった時代。
思想の信仰、当時はそれが世の中に強くあった。
それともう一つ、科学が信じられていた時代ということもある。
ソ連の人工衛星が飛び、初の宇宙飛行士ガガーリンが飛び、初の女性宇宙飛行士が「ヤーチャイカ」とメッセージを送ってきた。
その頃が、思想信仰と科学信仰の頂点だった。
その後はアメリカが意地で頑張って、共産主義は資本主義に抜かれた。
その辺からちょっと思想信仰の力が衰えはじめた。
でも科学信仰の方はアメリカが引き継いで、月面までもっていったのである。
でもこの信仰も、頂点はそこまでだった。
科学信仰の崩壊を悟らざるを得ないのは、オゾンホールの出現であろう。
科学のもたらす力が地球を実際的に破壊する現象を見て、科学信仰は崩れはじめた。
科学はもちろん必要である。
ただ、その信仰が危ないのだ。
歳をとると趣味が出てくる。
趣味に向かうようになる、というのは一般的にそうだろう。
現役引退という物理的条件もあるし、もう一つ、その人の内部的問題も大きい。
何といっても若いものの思想信仰が挫折し、挫折ということに関しては思想に限らず他にもいくつも散見することになり、「挫折」は何も特殊なことではなく世の常なんだ、ということを知るようになる。
「挫折の効用」とは何か。
それは「力の限界」が分かってくることである。
若いときは何でもできると思ってしまうけど、挫折をめぐって自分の限界が見えてくる。
世の中での可能性の限界も見えてきてしまう。
でも自分は生きている。
何かやらないと生きていけない。
お金を稼ぐこともそうだけれど、生きる楽しみでもそうだ。
小さな楽しみを繋ぎ繋ぎしないと生きていけないもんだ。
自分の力の限界が見えた後になって、そういう小さな楽しみが、にわかに切実に感じられてくる。
それまで思想とか理想とかに君臨されて、趣味なんてそんな小さなものなど、とむしろ軽蔑的に見ていたものが、抑えるフタがなくなると目の前に突然アップされ、細密にアリアリと見えてくる。
歳をとると、どうしても人生が見えてきてしまう。
つまり、有限の先が見えてくる。
その有限世界をどう過ごすか、という問題が出てきてしまう。
若いころは人生の先がまだ遠く、有限性がわかりにくい。
だから自分の人生への切実さが少なく、思想の世界のために自分の人生を寄付できると考えてしまう。
歳をとると、やけに自分というものが濃厚になってくる。
他の誰でもない「自分」の人生という有限時間が確実なものとして、一本の棒のように認識されてくるのだ。
いまの時代は、改革はともかくとして、革命信仰を持つことができない。
科学信仰を持つことができない。
ために、時代そのものにも有限の先がある、ということが見えてきてしまう。
そういう時代に生まれているため、いまの若者はすでに基礎控除のようにして、みな一律に「年の功」なるものを持ってしまっているのだ。
だから年齢的には若者でありながら、一気に老人世界の趣味に走れる。
ミーイズムとかマイブームという言葉は、その代表だろう。
本来なら、現役引退の老人が口にすべき言葉である。
それが、若年層から湧き上がってくるのだ。
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【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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