2009年2月27日金曜日

:日米芸術家気質


● 1976/11



 私が日本に来てまもなく、くり返しよく耳にする言葉だと気づいたのは、「シカタガナイ」と「ハズカシイ」の外にもう一つ、「イソガシイ」だ。
 そのうち私にも、日本では<忙しい>というのは一つの美徳であることがわかりはじめた。
 編集者たちが入かわり立ちかわりやってくる。
 マスオ(池田満寿夫)の原稿を受け取ったり、彼にインタヴユーをしたり、写真を撮ったりする。
 私は、はじめて東京にやって来た時、日本では芸術家や作家の意見が何かにつけて求められ、引っぱりだこであることを知って、すっかり驚いてしまった。
 東洋には文化を尊重する長い伝統があることは予備知識として知っていたが、日本ではアメリカとは比較にならないほど、芸術家が社会における必要不可欠な部分であり、彼らの意見が高く評価されていることは、すぐさま感じられた。
 芸術家が新聞や雑誌にものを書き、しかもそれが芸術についてとはかぎらない、という現象は、私にはなかなか信じられないことだった。 
 一般的に言って芸術家や知識人がおおよそ尊敬とはほど遠い存在、むしろ軽蔑される存在であるアメリカでは、とうてい考えられないことだからである。
 日本では、人びとは芸術家の書いたものにかぎらず、畑ちがいの人の書いたものを好んで読むようだ。
 アメリカでは、読者自身がなんらかの形で文化にかかわりを持っていないかぎり、わざわざ芸術に関するものを読もうとはしない。
 私のアメリカ人の友だち、得に芸術家の中にはめったに本を読まない人がいて、びっくりさせられることがよくある。
 それにひきかえ、日本の人びとのなんと旺盛な読書欲!
 あるアメリカ人の日本文学者と話した時、日本では専門の文筆業でない人が随筆などを書(映画スターや人気歌手が旅行記を書いたり、画家が文学を語ったり‥‥)ということに話が及んだ。
 すると、彼はいったもんだ。

 そうなんだ!
 すごくいいことだと思うよ。
 誰でもかける、だれでもなんとか書いてのけられる。
 ただし、そのほとんどがナンセンスだけどね。
 少なくとも、その十分の一でたくさんだね、出版されるのは。

 が、とにかく私たちの結論は、人びとには自分を表現し社会に貢献できる貴重な機会が与えられている、ということだった。
   アメリカでは「作家」でないかぎり、自分のものを出版できるこうした機会を掴むのは実に難しいということがわかるだろう。  私自身がこのジレンマに直面したのである。  ある日ひとりの編集者がやって来て、私自身についてものを書いてみないか、と勧めたのだ。  彼女によれば、マスオが「私自身のアメリカ」の中でたびたび私の考え方や意見を引いているのを読み、それならいっそう本人が、と思ったという。  私にしてみれば、昔むかしの学生時代をのぞけば手紙以外およそ文章らしいものなど一行も書いたことなかったのだから、その案にはまったくおじけづいてし まった。  私自身ではとうてい思いつきもしないことだ。  とは言え、その企画に魅力を感じないわけにはいかなかった。  私の心は千々に乱れ、手当たり次第に友だちの意見を聞かせてもらった。 「  どうしよう、やるべきかしら、どうしよう。  しょせん私は絵描きで、物書きではないんだから‥‥ 」
 ある日、東洋にも西洋にも精通している友人の加藤周一氏と天ぷら屋で昼食をとっているとき、私は彼の考えを聞いてみた。
 彼はきっぱりした口調で答えた。

 リラン、それは是非やるべきだ。
 そういう機会でもなければふだんは意識にものぼらないようなことを、いろいろ考えられるだろうからね。

 そこで、私にもようやくやってみる決心がついたのだった。
 自分の専門とは別のメデイアで自分を表現するということは、その人の興味、関心、能力などを広げてくれる。
 たぶん、自己発見にまでつながることもあるだろう。
 
 おそらくマス・コミニケーションの時代においては、社会の一部分、一要素としてそこに組み込まれるという一見健康的で建設的なことは、それなりの問題、それなりの危険が伴うのだろう。
 私としては、社会に参加することによって満足を得る芸術家の気分も理解できるし、むしろアウトサイダーでいることを好む芸術家の気持ちもわかる。
 たとえそれが、自国にありながら疎外されていることを意味するにしろ、日本という過密な島を遠く離れ、異国に暮らすことを意味するにしろ。








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2009年2月26日木曜日

余白のあるカンヴァス:梨蘭賛美[加藤周一]



● 1976/11



 いつどこで私は彼女にであったのだろうか。
 季節は覚えていないが、たしかに鎌倉の親しい友人の家だったろうと思う。
 私たちは、いくらか日本語で、いくらか英語で話していた。
 若いけど、少女ではなく、優しいけれど、臆病ではなく、控えめであって、しかし言うことははっきりしているという印象をそのとき私は受け、その考え方に、あるいはその感じ方に、あるいはむしろその双方に、世間出来合いのそれでなく、その人だけの味があると思った。

 昔の日本でよく知られていた中国の習慣では、梨花は美人の喩えに用い、蘭は画帖に好んで描かれる。
 梨蘭の名は、その体を現すのだろうと思う。
 中国系の画家と米国婦人との間に生まれた彼女は、早くからニューヨークで自活し、画家を志し、1960年代の若い女性として生きてきたのである。
 
 ニューヨーク市は、それを好むためにも、嫌うためにも。あまりに複雑な都会だろう、と私は思う。
 もしその街に生まれ育ったら、ものの考え方や感じ方がどういう具合に形成されるか、もしニューヨークをその意味で内側からみたら、その世界がどういう風にみえるだろうか、と考えた。
 それこそは、LI-LAN が語り得ることにちがいない。
 彼女は、それを知るためには、十分に内側に、それを語るためには、十分に外側に、生きていたはずだから。
 私はしばらく画筆を措いても筆硯に向かうことを彼女に説得しようと思った。

 LI-LAN はその文章のなかで、過去をふり返りながら、彼女自身を語り、同時にニューヨークを語っている、話題が日本やメキシコの経験に及ぶときにさえも。
 そこには、一般にアメリカ人の世界ではなくて、一人のニューヨーク人の世界がある。
  仕事を人格の中心に近いところにおくこと、他人と接する部分を自ら定めること、「自分自身に対して皮肉であり得ること」、またそのことと関連して一種の 「ヒュ-モア」の感覚のあること、時代のあらゆる事柄に関わりあると常に考えるとはかぎらないが、考える可能性をもっていること----そういうことが、 彼女の文章のあらゆるところにあらわれていて、私は大いにそれを好む。
 わたしだけではなくて、わが日本の多くの読者でもあり得るだろう、と想像する。

 私は LI-LAN を賛美する。
 だから友だちなったかもしれないし、友だちになったから賛美するのかもしれない。
 あるいはむしろその双方だろう。
 私の意見は必ずしも客観的ではないかもしれない。
 しかしこの天地の間には客観的判断よりも大切なことがあるだろうと私は思うのである。







 巻末の著者紹介文より。


 リラン(Li-lan)
 1943年、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで生まれた。
 母はアメリカ人、亡父は中国人の画家。
 高校を卒業してから絵を描きはじめ、これまでにいくつかのグル-プ展に出品し、個展も日本とアメリカで何回か開いた。
 日本では1971年、74年に東京・南天子画廊で。
 1965年にニューヨークで版画家の池田満寿夫を知る。
 その後二年たらずでヨーロッパに行き、生活を共にしはじめた。
 彼とともにはじめて日本の土を踏んだのは1968年。
 以来二人は、二つの国のあいだを行ったり来たりし、ある時期は東京で、またある時期はニューヨーク州イースト・ハンプトンで暮らしている。








 読後感想案内:

★ 繰り言 The Grumbling Harp
http://toshiyori.exblog.jp/7765707/




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2009年2月25日水曜日

我が町、ぼくを呼ぶ声:訳者あとがき


● 1980/07



 洋書屋でこの原本を初めて手にしたときの驚きを今も憶えている。
 フェイバー・アンド・フェイバー社版のジャケットには、なんとす裸の中年婦人がイギリスの田舎町を闊歩している絵がえがかれていて、タイトルは "The Pyramid" と記されていた。

 ウイリアム・ゴールデイングの代表作は、何といっても「蠅の王」(1954)であるが、本書は彼の第六作(1967)の全訳である。
 「蠅の王」にまさるとも劣らない、すばらしい魅力をもった、独創的な作品だとぼくは思う。

 それにしてもこのイギリスの田舎町の人びとの生態は、簡潔ながら具体的に、明確な輪郭をもって、じつに見事に描かれている。
 きびしい階級意識にしばられ、俗物根性が骨の髄までしみついた人びと、それらから解き放たれようとすれば、かえって自縄自縛に陥るしかない、愛を求めて手をのばしてもついに叶えられることのない、グロテスクに歪んだ人びと----。

 この作品はいかにもけれんみのない、じつにリアリステイックな筆致で出発する。
 だが四分の一も読み進まないうちに、まてよと思う。
 ある意味ではたしかに終わりまで社会風俗小説であり、リアリズム小説である。
 が、ホントウにそうだろうか。
 なんだかこの作品は謎めいている。
 そう、リアリズム小説ではないのだ。
 あるいは謎めいたリアリズム小説といっても同じことなのだけれど。
 その謎とは、つまり、ぼくらがその中で生きている文明のかかえもっている、あるいは秘めている謎である。
 日々、不用意にもぼくらは往々にして意識せずに、あるいは意識しても検めてみようともせずに、目に見えない文明のピラミッドを営々として築き上げることに手を貸してうる。
 そうしたピラミッドだと言いかえてもいい。

 現代イギリス文明の中にはほとんどとり込まれてしまったオリヴァー、結局は負のかたちであってもこの町によってモラルを形づけられたというよりほかないオリバヴァーも、語り手としての特異な役割は、この謎にかかわって極めて重要である。
 謎をさらに深めたり、謎の所在がほかならぬ彼自身にあることを暗示したりするのである。
 この語りの仕掛けは、ゴールデイングの新たな文学的技法上の勝利と言わねばならない。
 
 イギリス文明のピラミッドを見るようにと読者を誘っているように、ぼくには思われる。
 この小説は教養小説ではない。
』 
 






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2009年2月23日月曜日

菊と葵のものがたり:イギリス皇室の思い出:高松宮喜久子


● 1998/12





 宮様とご一緒に、生まれてはじめて外国に旅立ったのは、私が満十八歳の春、1930年(昭和5年)4月21日のことである。
 結果からいうと欧米24カ国を14カ月をかけて回る長い旅になる。
 欧州へ御差遣になる陛下御名代が高松宮に決まり、結婚したばかりの「妃殿下」もお供することになったのだ。
 2月3日に宮様のもとへ上がって未だ間のない私は、人に「妃殿下」と呼ばれる度に、誰のことかと思って一瞬ドキンとした。
 徳川家の古いしきたりの中で、箱入り人形のように育てられた世間知らずの十八歳には、いろんな意味で重すぎるお役目だったが-------対日感情も和やかだったのが、せめてもの救いだったろう。


 相つぐご披露の宴会、伊勢神宮や桃山御陵、泉山御陵、有栖川の御墓所への参拝、外遊についてのお別れの宴と、無我夢中で忙しい日程をこなしているうちに、横浜出帆の日が来た。
 船は日本郵船の鹿島丸であった。
 横浜の埠頭まで、勅使、皇后陛下皇太后陛下の御使、そして陸軍の軍服を召した秩父宮の御兄様と御姉様、-------。
 やがて「蛍の光」奏楽のうちに船が岸を離れ始め、テープも潮風に千切れて、人の姿が遠く見えなくなるまで私は甲板に立ちつくし、ハンカチをふって別れを惜しんだ。
 陛下御名代の英国への鹿島立ちとなれば、やはり大変なものであった。
 横浜港外へ出ると、横須賀鎮守府司令長官大角中将の将旗をひるがえした巡洋艦「北上」が姿をあらわした。
 駆逐艦や潜水艦の姿も見えた。
 海軍の艦艇群は、「北上」を先頭に、各艦登舷礼を行いつつ鹿島丸に同航して来た。
 霞ヶ浦航空隊の飛行機九機も見送りに飛来した。
 宮様と私はブリッジへ上がって海に空にハンカチをふりつづけた。
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 鹿島丸には朝日新聞と報知新聞の特派員が始めから同船していた。
 そうでなくても新婚の夫婦は、ほかの先客の注視のまとになるのに、一挙一投足、こまかく観察されている感じで、きまりが悪くて困った。
 
 マルセーユまでの42日間の航海中、鹿島丸が入った港々は、私にとってみな、なつかしいところだが、特に印象深かったのは上海と香港である。
 上海には、十五年後日本敗戦降伏の際、重大な役割を果たす外交官の重光葵さんと、海軍の米内光政さんが在勤しておられた。
 黄浦江の濁流を溯って上海に着いたのは4月の29日、天長節の佳き日であった。
 私たちは上陸して総領事館を訪れ、重光代理公使はじめ邦人たちとともに、祝賀会に臨んだ。
 つづいて在留外交団を招いてのリセプションが催され、それを終えてから米内さんが司令官をしている第一遣外艦隊の旗艦「平戸」へ行って司令官主催の午餐会に出席した。
 米内さんはなかなか風格のある提督だったが、当時未だ少将で、この人が将来、滅亡の淵から国を救う役を果たされるなどと、むろん私は想像することすら出来なかった。
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 香港を出る頃からだんだん旅に馴れて、日の経つのが早くなった。
 6月2日、船はめでたくマルセーユへ入港した。

 フランスとスイスにしばらく滞在静養したあと、6月26日、いよいよこの旅の最大の目的地ロンドン入りすることになった。
 特別仕立ての連絡船「メイド・オブ・ケント」号に乗りこみ、正午カレーを出帆、英仏海峡は天気が悪く波が高かったけど、一時間もしないうちに、ドーヴァーの白い崖が見えてきた。
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 日英両国旗で飾られたドヴァー駅の通路には真紅のカーペットが敷きつめてあった。
 そこから一行は「ゴールデン・アロウ」号でロンドンへ向け出発した。
 「ゴールデン・アロー」はロンドンとパリを結ぶ名高い特急列車だが、この日乗ったのは、特別仕立てのものであった。


 バキインガム宮殿へ行く途中のロンドンの町々は所々に日の丸の旗がひるがえり、遠藤はおびただしい数の群集で埋まっていた。
 横目で宮様を見ると、宮様はいともまじめに正しく挙手の礼で答えていらっしゃる。
 そこで私はここぞとばかり奮発して、とっておきの愛嬌を振りまくことにした。
 一所懸命ニコニコ右に左に会釈してみせるのである。
 しかし、その笑顔も、5分や10分ならよいが、40分も続くと相当な苦痛で、バッキンガム・パレスへ着く頃には頬の筋肉が、笑った形のままこわばってしまったような気がした。
 翌日のロンドンの各新聞は私たちの馬車の写真をかかげ、
 「高松宮妃殿下ロンドンに微笑みかける」
Princess Takamatsu smiles on London.
 「明るく輝かんばかりの若い女性、素晴らしく自信に満ちて馬車から降り立ったが、落ちついた身のこなしは完璧であった」
But out stepped a radiant young girl, magnificently sure of herself, her poise perfect.
 などと、まことにありがたい賛辞を載せてくれたが、それには頬がこわばりつくだけのモトがかかっていたのである。
 
 さて、私たちの到着したバッキンガム宮殿だが、中庭に黒い帽子と赤い服のおもちゃのような近衛儀杖隊がずらりと整列していた。
 結婚後二カ月で日本を発って来て、日本の宮廷のこともよく分かっていない私には、すべてが新しく、珍しく、晴れがましく、ハイヒールにすら未だ充分なれていなかった。
 両陛下の前に出ると、大いに緊張した。



 八時半、バッキンガム宮殿で皇帝陛下御主催の晩餐会が始まった。 
 この晩餐のメニューを載録しておくが、見ての通り、すべてフランス語である。


 それからあとのことは、詳しくかくときりがない。
 ロンドン市長の公邸、いわゆるマンション・ハウスで催される伝統の市長主催午餐会に招待され、古来からのいろんないかめしい儀式と、儀式ばった食事が終わり、
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● 1930年 ドイツにて [Wikipediaより]



 1930年といえば90年ほども前。
 遠い昔の話になる。

 高松宮宣仁親王妃喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ)様は2004年他界された。




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2009年2月22日日曜日

:敗戦



● 1979/04 新潮社



 「一死以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル」
 という血に染まった遺書のほかに、割腹の直前、彼は
 「米内を斬れ」
 と、不思議な言葉を遺して亡くなった。
 

 陸軍大臣の背後には実戦部隊四百万の何も知らぬ陸軍将兵が、未だ未だ戦う気構えでいるんです。
 ひとくちに四百万と言っていますが、海軍と較べてまるっきり世帯の違うこの大武装集団を、ピタリと一つにまとめて終戦へもっていくには、想像以上に大変なことですよ。
 大陸戦線の陸軍なんか、事実負けていないんだから、急に敗戦とか降伏とか言われても、実感が伴わない。
 こういう時には、幾人か、芝居の原田甲斐のような人が出て、悪役を演じなければ事態は収まりません。
 阿南(陸相)さんは終戦のやむ得ないことをよく承知していながら、双方に対しわざと悪役になって見せたのではありませんか。
 そうして本土決戦を唱える陸軍の面目を立てて、最後は落ちつくべきところへ落ちつかせて、自分は自刃されたのだと思います。

 これは岡本功中佐の談話で----

 下村陸相は責任を感じるといって依願免官のかたちをとったが、米内は廃省に伴う自然廃官となった。

 海軍の解体にあたって、
 米内が保科善四郎に遺嘱した事項が三つある

第一は、聯合国側もまさか日本の軍備を永く
 完全に撤廃させておくとは言わないだろう。
 陸海軍の再建を考えろ。
 海軍に関しては、ほぼ日露開戦当時の三十万
 トンか。
第二が、海軍にはずいぶん優秀な人材が集まり、
 その組織と伝統とは日本でも「最もすぐれたものの一つ」であった。
 先輩たちがどうやってこの伝統を築き上げたか、
 それを後世に伝え残してほしい。
第三が、海軍の持っていた技術を
 日本の復興に役立てる路を講じろ。

 第二の海軍の伝統を伝える課題では、青梅の奥、吉野村に住む吉川英治のところへ度々足を運んだ。
 戦争中、吉川英治は勅任待遇の海軍嘱託で、もしいくさに勝っていれば長大な海軍戦史を書くはずであった。
 「今すぐでなくてもいいですから、何とか海軍のよき面を後世に残す物語を」と再三再四頼みに行き、吉川の方も一時その気になっていたらしいが、昭和37年に無くなるまでは結局筆を執らなかった。

 高木惣吉少将は、東久爾宮(爾:アテジ)内閣の副書記官を最後に公職を離れ、戦史執筆の道に入った。
 米内井上の密命をうけ終戦の下工作をした海軍少将が、軍部政界裏表の真相を自己の見聞にもとづいて書いたものだから、言論界の一部では高く評価されたが、旧海軍関係者の間に
 「実戦にも出なかった奴がけしからん。高木斬るべし」
という声が起こって来、
 「矢があらゆる方面から飛んで来る」
ようになった。
 長井の海辺に井上成美を訪ねてその話をすると

 かまうもんか。
 自由な批判が無くして何が海軍だ。
 喉元過ぎれば熱さを忘れる。
 どんどん書け。
 今のうちに海軍の悪かったとこをどんどん書いとけ

 と井上が言った。

 将官級のA級戦犯ににつづいて、B級戦犯として巣鴨に入った人も少なくなかった。
 対米情報担当の実松譲大佐もその一人であった。
 法廷に立たされるかっての部下先輩同輩のため、弁護人をつけるにも、証人を上京させるにも、宿泊させるにも、相当の資金が必要だが、占領軍司令部が、彼らを公人扱いして、国費を使うことを許さなかった。
 再三交渉の末、被告の友人の個人的寄付なら受けてよろしいということになり、海軍は岡田啓介、野村吉三郎、米内光政の三大将を発起人に立てて、募金運動を開始した。
 予想以上の好成績で、全国から総額六、七百万円の金が集まったけれど、これにお礼のしようがない。
 一定額以上の人へ米内さんの色紙を贈って礼に代えようと------頼みにいくと米内は承諾した。
 それで、昭和二十一、二ごろ彼の筆を染めた「為万世開太平」という書がたくさん残っている。
 直接は終戦の詔書からの引用だが、宋の儒学者横渠先生張載の

 天地ノ為ニ心ヲ立テ
 生民ノ為ニ命ヲ立テ
 往聖ノ為ニ絶学ヲ継ギ
 万世ノ為ニ太平ヲ開カン

 が本来の出典だそうである。
 ただし、かってのの筆勢はもう失われていて、色紙の字がみな弱弱しい。




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2009年2月21日土曜日

:昭和十九年


● 1979/04 新潮社



 七月十八日、組閣開戦決定以来二年九ケ月で、ついに東條内閣が総辞職する。
 野村直邦海軍大将は、就任からわずかに18時間後に辞表の捧呈をさせられた。
 「一夜大臣」と部内部外でもの笑いになった。

 「軍は要するに作戦に専念すべきものなり。
 元来、軍人は片輪の教育を受けているので、それだからこそ又強いのだと信じている。
 従って政治には不向きなりと思ふ」
 「軍人はかたわ」の教育をうけているから「政治には不向き」だと言明した人はちょっと見当たらない。

 七月二十二日、現役に復帰した米内光政は、海軍卿勝安房から数えて三十代目(結果からいうと日本の近代史最後)の海軍大臣として、白い夏軍装で登庁してきた。

 八月五日、次官として海軍省に着任した井上中将は、戦況説明を聞き、電報綴りを見、江田島では分からなかった国内の実情を知って、米内とまったく同じ感想をいだいた。

 もはや日本は負けるに決まっていますが、私の想像していた以上に現状がひどい。
 一日も速く戦争終結の工夫をしなくてはなりません。
 そのために、今から私はいくさをやめる方策の研究を内密に始めますから’、大臣かぎり御承知願います

 と、米内に訴えた。
 米内の諒承のもとに、井上の密命でその「研究」の主務者を命ぜられた高木惣吉少将が「軍令部出仕兼海軍省出仕海軍大学校研究部員次官承命服務」という奇妙な辞令をもらい、病気療養を口実に伊豆へ引きこもってしまうのは、昭和十九年の九月中旬である。
 「一億総玉砕本土決戦」を唱えている陸軍をだますには、先ず部内からだましてかからなくてはならなかった。

 ある晩、例によって出陣司令官の送別宴のあと、飲みなおしの席で米内が
 「君たちは東京にいて、今、米の配給何合何勺か知っているか」
 と聞いた。
 誰もこたえられなかった。
 「六十歳まで二合三勺、六十以上は二合一勺」
 米内ははっきり数字を挙げ
 「僕は配給以上の米は食べていないよ」
 と言った。
 家で配給以上の米を食わないのは事実だが、好物の酒となると話が別のようであった。







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米内光政:米内流読書法:阿川弘之


● 1979/04 新潮社



 戦死公表から国葬のあとまで、山本五十六に関するもろもろの要件が彼にかぶさってきていたが、やがてそれもあらまし片づいて、米内は再び三年町の家にこもり、毎日をどう過ごしていいいか分からぬような隠居の生活に戻ってしまった。
 素人大工か、長唄か、書を揮毫するか、そうでなければ本を読んで暮らした。


 書物はその時々で受けとる感じがちがうから、一度読んだ本を何年かして読み返すと、また別の味わいがある。
 本というものは、繰り返しよむべきもんじゃないかね。
 僕は一冊の本が気に入れば、少なくとも三遍読むよ

 と、米内流の読書法を語ったこともある。
 手控え帳があって、詩集や漢籍の中にいい言葉を見つけると書きとめておく。

 難しい本ばかり読んでいるわけでもない。
 盛岡中学の後輩、野村胡堂の著書が書斎にたくさん並んでいて、
 「頭を休めるにはこれがいい」
 と、「銭形平次捕り物控」は彼の愛読書であった。

 これより三年後、戦争が終わって昭和21年8月6日付け、小泉信三宛書簡の中に、ぽつんと「女婿戦死の日」という一語が添えてある。
 この手紙は、私家版「海軍主計大尉小泉信吉」を寄贈されての礼状で、


 拝啓 
  去る六月御恵贈被下候『海軍主計大尉小泉信吉』第一読は恰も飢えたるものの食を貪る様な早さで、第二読は相当咀嚼しつつ漫々に読了致し申候。第三読ではじめてホントウの人間味を味ひ得る様な気がいたし申候 不備
  八月六日
                    女婿戦死の日 米内光政
 小泉信三様
   その内拝趨仕度存居候


 となっており、言外に自分も同じ哀しみを味ったと告げているように見える。




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2009年2月20日金曜日

憑神:貧乏神、疫病神、死神:浅田次郎


● 2007/05



 いかに古い家来であろうが、足軽は足軽というわけだ。
 何をされても文句のつけようがない、身分の足元を見られたのである。
 不幸の正体は、まさにそれであった。

 「わしら神の目から見れば、人の世は興行でごんす」
 --------
 「わしがまちごうているのではあるまい。
 世間の仕組みとやらがまちごうているのだ。そんな理屈が罷り通ってなるものか」
 「平安とはそういうもんでごんす」
 「ちがう。
 --------
 おい、聞いておるのか、疫病神。
 そこもと八百万の神々のはしくれならば、少しは神様らしきことを言うたらどうだ。
 まったく、人間に説教などされおって、だらしない」 

 おのれがなすべきことは、この二百五十年にわたる太平の日々が、けっして悪いものでなく、つまらぬ時代ではなかったと、たったひとりでも去り行く世に向こうて叫ぶことではないのか。
 武士道も人の道もよく知らぬ。
 だが、七十俵五人扶持の御徒士の道は知っている。
 それは大義に生きるのではなく、「小義に死する」足軽の道である。
 神の意のままにならぬ人間が、ひとりぐらいいてもよいであろう。
 侍なのだから、死を怖れてはならぬ。
 ただ神の意のままに死するは武士の本懐とはいえぬ。
 ささやかな義すらまっとうできぬおれが、神の意のままに死するは犬死である。

 「拙者は、天に選り抜かれたのかもしれぬ。そう思わねば、やがて来る死神にまみえる顔がない」
 「神仏は、おまえ様のおもうほど偉くはないぞ」
 「しからば、その偉くはない神仏に、人間の偉さを見せてやるだけだ」

 名人と呼ばれる人はみな似たものであろう。
 人間よりも物を信じ、物を愛していれば偏屈にもなる。
 腕を上げれば上げるほど、人間から遠ざかり、またその隔たりの分だけ人間が馬鹿にみえるのかもしれぬ。
 「侍の権威が地に堕ち、性根もまた腐り切っておるというに、刀ばかりは古刀の名手に迫る技量が続々と現れる」
 
 「人間はいつか必ず死ぬ。
 ----神々はみな力がござるが、人間のように輝いてはおらぬ。
 死ぬることがなければ、命は輝きはせぬのだ。
 しかし、わしの命には、まだ輝きが足らぬ」
 人間が全能の神に唯一まさるところがあるとすれば、それは限りある命をおいてたにはあるまい。限りあるゆえに虚しい命を、限りあるからこそ輝かしい命となせば、人間は神を超克する。
 「おじちゃん、そんなことできっこないよ」
 「いや、できるできぬではなく、やらねばならぬ。頼む、おつや。わしに時をくれ」

 「わしも大言壮語を吐いたはよいものの、これとさだむる死場所が見つからずに往生しておる。洒落ではないぞ。もことに往生しておる」
 死神に延命を懇願したあげく、ついに死にどころを得ぬのである。
 ほかの侍たちは恥を忍んで命ばかり永らえればそれでめでたいかも知れぬ。 
 が、おのれひとりは、はなから命がかかっている。
 ましてやそうしたおのれに情けをかけた死神も、今や立つ瀬があるまい。

 憑神は、主人に弓引けと申しまする。
 かねてより事情を知りたる同輩も、親しき町人もさようもう島する。
 神と侍と町人と、みなが口を揃えて申しますることは、おそらく天下の総意と思うて誤りなきかと存知まする。
 しかしながら、拙者には総意すなわち正義であるとは、どうしても思えぬのでございまする。
 かくして、拙者は、神と人との総意に抗いまする。
 拙者のごとき下賎の侍は仏にこそなれ、神にはなれませぬ。
 ならばせめて、有為の人間として死にとうござりまする。
 その一死こそが、武士の本懐と信じおりますれば。
 臣、別所彦四郎直篤、徳川の殿軍の一兵として死にとうござりまする。
 その手立てを、なにとぞお教え下されませ。
 伏して御願い奉りまする。






 この本、一月のはじめに読んだのだが、そのときの抜書きが残っていた。
 「お腹召しませ」を読んだので、今回同じ著者の長編ものということで読み返した。
 前のに加えてまとめてみた。


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2009年2月19日木曜日

インク壺:駒形どぜう:益田れい子


● 1998/10 暮らしの手帳社



 「どじょう」と書くより「どぜう」とした方がうまそうに感じられるのは、浅草の<駒形どぜう>が肉太の字でどぜうと表記していることに、おおいにかかわりがある。
 発音のほうも、「DOZEU」とわざといって、にんまりしたりしている。
 どぜう。
 忘れているようで、決して忘れていないおいしいもののひとつである。
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 田んぼから台所へ直行してきたどぜうは、当たるべからざるいきおいで、深いバケツの中を、しきりに上下する。
 いっせいに上下するから、黒いクス玉が割れたり、戻ったり、黒い花火がひっきりなしに、はじけているぐあいだ。
 ときおり白い腹をピカッと光らせる。
 料理される前の、バケツのなかのどぜうは、思いきりにぎやかで、だから食べるのがかわいそうだ。

 どぜうを煮る段になって、七輪にかかった鍋のフタを押さえるのは、たいていこどもの役で、私も木ブタを必死で押さえたものだ。
 「どぜうがあばれるからね、頼んだわよ」
の母のひと声で、私は覚悟を決める。
 最初、鍋のなかは妙に静かだ。
 ほどよいぬくもりのなかにいるからなのだろうが、環境の激変に敏感な彼らが、いつまでものんびりしているはずもない。
 七輪の火はいきおいを増してくる。
 調味した汁のにおいが次第に強まる。
 にぶい音が鍋の中から上がってくる。
 ああ、どぜうたちがつらがっている。
 鍋の中が再びひっそりと静かになるまでの数分間、複雑必死の数分間だ。
 これがあるから、家庭でどぜうを食べるのは、おいしいと同時に、苦しいのだ。

 プロのどぜうの扱いかたは違う。
 生きたどぜうに、お酒をかけて、(駒形どぜう五代目渡辺繁三さんによると、一貫目のどぜうに日本酒二合の割合だそうだ)浮かれ気分にしたうえ、七、八分かけて酔わせてしまう。
 渡辺さんによると
 ”その酔わせかげんがむつかしい。手で持ち上げてみて、頭と尾をだらりと下げるくらいが適当”
という。
 まったく酔いつぶして仮死状態にしてしまったのではうまくないらしい。
 どこかに正気を残しておく。
 酒の力で、どぜうのくさみが抜け、同時に骨もやわらかくなるという。
 お酒の力をかりるということを知らなかったから、私の家の台所は「どぜう」いうと、ひとつ覚えの覚悟は要った。

 駒形どぜうでは、酔わせたどぜうをあらかじめ仕立てておいた甘味噌仕立ての味噌汁に入れて、強火で、三十分ほど煮込んだのを「どぜう鍋」にする。
 --------
 田んぼが変わってしまって、このごろ、どぜうは台湾あたりで育ててもらっているとか。
 日本人が暮らしの底で育んできた蛋白源のひとつ”どぜう”を、このさきもいとしみたい




 「あとがき」から。

 「どぜう」の写真のときは、コンロの火が美しい赤朱におこるグッドタイミングをつかむのに、四時間も駒形どぜうのお店でカメラを構えさせていただいた。
 このときにかぎらずどんな寒いときの取材でも、両カメラマンの顔といわずからだ中に汗が光った。
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 すべての方々に、感謝の言葉をささげたい。

 一九九八年夏            増田れい子





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:ファッションの誘惑


● 2001/02  草思社



 ファッションは美そのものとは違う。
 ファッションの急激な変化は衝撃的であっても、人間の美しさとはほとんど関係がない。
 ファッションはひとつの芸術形態であり、生き方をしめすものだ。
 ファッションには私たちの欲望が複雑に映しだされる。
 現代のファッションは手の届かない世界を感じさせるが、めざすは常に「今」である。

 デイズモンド・モリスは人間を「裸のサル」と呼んだ。
 だが同時に私たちは「服を着たサル」でもある。
 経済学者ソースタイン・ヴェブレンは1899年に著した「有閑階級の理論」の中で「衒示的消費」という有名な造語をつくりだした。
 すなわち、高価なものを集める嗜好である。
 服装は「衒示的余暇」をあかすものである。
 ヴェブレンのいう「余暇」とは、収入や役に立つものの生産にはいっさい無関係な活動を楽しむことを意味する。
 そしてステータスは「衒示的浪費」によってあらわされる。

 貧富の差は----やせている方が金持ちという可能性は高い。
 裕福な人たちはジムでトレーニング、専属トレーナーの指導、体脂肪吸引法、あるいは移植手術などで体を作り直していることが多い。
 裕福な人たちの体は維持に大金がかかっており、その効果が如実に表われている。

 もうひとつのきわめて現代的な現象が、スーパーモデルの台頭である。
 彼女たちは----極端に細い体を保つために、猛烈な努力が要求される。
 不摂生(麻薬・喫煙・摂食)なしに痩せるのはむずかしく、やせた人たちの多くが不摂生する。
 「お金と時間的ゆとりと強迫観念」が必要であり、自分の食べるものすべてを管理しなくてはならない。

 人は将来どんなものを着るようになるだろう。
 おそらくデザイナーのロゴはすたれるびちがいない。
 エリートのファッション界では、すでにロゴにたいする興味が薄れている。

 前衛的な服飾デザイナーのあいだで、新しい言葉が飛び交いはじめた----「
知性」である。



 「声、しぐさ、匂い、そしてフェロモン」より。

 昔の人びとは「美」を絶対的なものとして語った。
 しかし、私は文化の作用や神話の奥に、「現実的な美の核心」が隠れていると考える。
 「
文化はすべて美の文化」 であり、世界のどこでも美は強い破壊力をもち、感情を刺激し、注目を集め、行動を支配する。
 あらゆる文明が美をくつがえしては全力で追求し、その追及がもたらす喜悲劇を味わってきた。

 人工知能の世界的権威マーヴィン・ミンスキーは、美の体験は頭脳にたくわえられた「
否定的証拠」(してはいけないことに対する知識)の動きを一時的に停止させるとしている。
 美しいものを目にすると「評価、選択、批判を停止するよう」脳に信号が送られるという。
 美は「脳の判断に逆らう」ことを許される数少ない体験のひとつなのだ。
 美を前にすると批判的な頭脳がいっとき力を失い、人は内省したり、ほかのことを考えたりしなくなる。
 美に対する反応は脳の働きであり、深い思索にもとづくものではない。
 私たちの頭脳は、生存と繁殖にかかわる問題を解決するように自然淘汰によって進化してきた。
 美は「命を絶やさないための手段」のひとつであり、美に対する愛情は人間の生物学に深く根ざしているのだ。

 美をどのように考えるべきか、あるいはなぜ人間は美について考えるべきなのか。
 言ってみれば美はとほうもなく「不公平」だ。
 遺伝子の恵みなのだから。

 だが、こわがっていてもはじまらない。
 知識は力だ。
 人間の本質について深く知れば、それだけ不平等を指摘し自分たちを変える可能性も生まれてくるだろう。
 科学的な研究は、価値を定めることではない。

 美は消えてなくなりはしない。
 美はとるの足りないもの、あるいは文化がつくりあげたものという考え方は、まさに美の迷信だ。
 私たちは美を理解する必要がある。
 さもないといつまでも美に囚われるだろう。






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:サイズが肝心


● 2001/02  草思社



 アメリカと西欧諸国のの大半では、「美しさ」はほっそりとしなやかで、バレリーナのように華奢で「自己抑制的」であることを意味している。
 ちまたに食糧があふれ、食の誘惑にとりまかれた環境の中で、最高のギャラを獲得するモデルは、身長180センチ、体重50キロという女性たち。
 その姿に羨望のまなざしを向けるのは慎重162センチ、体重64.5キロの平均的女性たちだ。

 肥満度は「ボデイーマス指数」で計算されることが多い。
 体重(kg)を身長(m)の2乗で割った数値である。

 ボデイーマス指数=体重(kg)/{身長(m)×身長(m)}

 アメリカ政府はこの指数を「25以下」にたもつことを人びとに奨励している。
 つまり、身長162cmの女性の体重は66kg以下であればよいことになる。
 体重をけずるのはひと苦労だ。
 アメリカ人は年間総額400億ドルをつぎこみながらも、平均体重は増えつづけている。
 アメリカ人のエクササイズに使う時間は一日平均「16分」。
 アメリカ人の24%は、毎日じっと座ったきりで動かずにすごしている。

 ベッドに寝たきりという人が、体力を適正にたもち体内の静かな活動(細胞組織代謝など)をつづけるために必要とする熱量は「1,400---1,600カロリー」。

 活発に動き回る人でも「2,000カロリー」以上は必要としない。
 
 摂取される食物が多すぎ、消費されるエネルギーが少なすぎる状況では、ウエストラインが太くなるのも当然である。

 私たちは、旱魃、洪水、地震、動植物の欠乏が周期的に飢餓状態を引き起こす世界に適応してきた。
 現在でもなを、低開発諸国の半数近くが少なくとも一回食糧難に襲われ、その1/3が深刻な飢饉に見舞われる。
 食べられるとき思いきり食べ、体は脂肪をたくわえ、食糧不足に対応して代謝のメカニズムを調整しいぇ、栄養分を効率よく活かそうとする。
 わたしたちが肥満体になったのも、不思議はない。

 「国王ひとりが食糧や労働力を統制し、十分食べて肉体労働はせず、太ることができる状況」のなかでは、太っていることが優位のあかしになる。
 やせた人は貧しくて栄養がとれず、肉体労働に追われて体重が増やせないからだ。
 かたや「貧しい人が太る社会」(健康にいい高価な食品は買えず、安く手に入るジャンクフードを食べ、その危険性に無知である)では、優位の象徴は「やせた人」であり、ダイエットやエクササイズになる。

 進化の中で、やせた体形が理想とされた先例はない。
 じつのところ、淘汰ではその逆が選択されたはずだ。
 摂食障害では生殖能力や繁殖能力がさまたげられる。
 飢えた動物は繁殖をおこなわず、交尾さえしない。
 生殖能力を閉ざすのは、体が適応の安全弁を閉じるようなものだ。

 しかし最近、科学者たちは食物を制限された動物のほうが長生きをすることを発見した(30%寿命が延びる)。
 長く生きると同時に、生殖能力は食糧が豊かになって繁殖が可能になるまでの間、活動を停止する(食物を制限された中年のマウスの卵巣は、普通よりユックリ年をとっていく)という。

 実際に何人かの心理学者は、食事を抑える女性は、無意識に繁殖を制限しているのではないかと指摘している。






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2009年2月15日日曜日

なぜ美人ばかりが得をするのか:訳者あとがき


● 2001/02  草思社



 人がなにを、なぜに美しいと感じるのか。
 改めて考えるのはむずかしい。
 植物や動物のあざやかな色あいや微妙な姿形、空や海や、太陽や月を美しいと感じるのは世界共通で、よほどのひねくれ者でないかぎり、誰もが美しいと共感するのではないかと思う。
 しかし、「美しい人」はとなると、万人が認める美人や美男子はごくかぎられてくる。
 しかも、その美しさの定義はあいまいだ。
 本書の中で、あるテレビ・プロジューサーは、人の美しさとはどんなものかと問われて、「言葉にはできないが、それが部屋に入ってくればすぐにわかる」と言っている。
 たしかに、美しい人を目の前にすれば美しいと感じても、言葉では「なぜ」「どこが」と、なかなか説明はできない。
 その難問にできるかぎり科学的・客観的な答えを見いだそうとしているのが本書である。

 著者のナンシー・エトコフは、脳や認識力にかんする自らの研究をふくめ、進化生物学、心理学、人類学などの最も新しい調査や研究、美術史家たちの証言、あるいは歴史上の人物たちのエピソードなどをふんだんにまじえて、美という謎を解き明かそうとしている。
 その基本になっているのが、人間をふくむ生物が進化してきた過程で、生殖能力が高く健康で、種の存続にもっとも適した姿形を美しいと感じる感覚が選択され、遺伝子の中に組み込まれてきたという考え方である。
 ------「美しい」とされるこうした要素は、いずれも健康、強さ、生殖能力の高さ、健康な子供を作る可能性を伝えるのだとしている。
 美人薄命といわれるが、じつは「美人は長命」だったというわけだ。
 本書の原題が
 「Survival of the Prettiest-The Science of Beauty(美しいものは生き残る-美の科学)」
となっているのも、そのためだろう。

 この本では、美はたんに人が社会の中で学習して身につける感覚ではなく、進化の過程で生存のために選択されたきた感覚であるという基本をもとに、さまざま興味深い問題がとりあげられている。
 美を必死で追いかけるために起きてくるさまざまな障害(拒食症や過食症、美容整形の弊害など)から、ファッションの歴史にいたるまで、美にかんすることがらが網羅され、まさに美のアンソロジーというべき本である。

 著者のナンシー・エトコフは、現在ハーバード医科大学で教え、心理学者としてマサッチューセッツ総合病院で患者の治療にもあたっている。
 この本を書くにあたって、「美」をテーマにあらゆる分野から膨大な資料を集め、たんねんに調べあげ、できるだけ公平に整理しまとめあげた著者の力量には、感嘆のほかない。
 また文章にはたくまざるユーモアがあり、科学的なことがらにもできるだけわかりやすく説明がなされている。
 スーパーモデルのシンデイ・クロフォードは「私は「遺伝子フリーク」とは呼ばれたくないけど、ナンシー・エトコフの本はすごく面白くて、わかりやすい。こうだと頭から決めつけることなく、美とはどんなものかを探っている点にも好感がもてる」と賛辞を寄せている。

 2000年10月  訳者


 面白い本です。
 抜書きしておきたい知識が満載されている。
 題名はミーハーだが学問書研究書である。
 「ひとはなぜ、美しさにこだわるのか」といった風な題名の方がよかったのでは。
 あるいは「人間にとって、美しさとはなにか」。
 この本の題名「なぜ美人ばかりが得をするのか」では女性が読まないのでは。
 そういう研究内容も含まれているのに。
 もったいない。



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2009年2月14日土曜日

:御鷹狩


● 2006/02/10



 青春はさまざまな欲望の坩堝である。
 わけのわからぬ無数の欲が肉体のうちに煮えたぎっている。
 私の青春時代は昭和40年代の高度成長期に当たるが、多くの若者は国家の繁栄を実感できるほど豊かではなかった。
 社会は金持ちなのに俺たちは貧乏だという、妙な被差別感情を若者たちは共有し、一揆のような学園紛争が流行した。
 政治や思想を語れぬ今の若者は無思慮だと非難する同輩が多いが、わたしにはそうとは思えない。
 現代の若者たちは煮え滾る欲望を、政治や思想に託けて発散しなければならぬほど貧しくはなく、また愚かしくもないのである。
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 付き合う友人は文学青年でもゲバルト学生でもない、すこぶるいいかげんな連中に限定された。
 そうした悪友たちと、しばしばフーテン狩りにでかけた。
 その当時、新宿の界隈には「フーテン族」と俗称される若者たちが屯ろしていた。
 いい若い者が着のみ着のままのなりで、日がな浮浪者のごとくごろごろしているのである。
 何もせず、何も考えないというのが彼らの哲学であった。
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 私たちの「フーテン狩り」には格別の目的があったわけではなかった。
 陽の落ちたころを西口の中央公園に出かけてころあいの獲物を見つけ、大怪我をしない程度に痛めつけて帰ってくるのである。
 むろん金品を奪ったり、恐喝はせず、女のフーテンには目もくれなかった。
 物も言わず躍りかかるや、無抵抗で無気力な若者をひたすら殴って立ち去るだけである。
 公園をひとめぐりすると、私たちは何事もなかったようにそれぞれの家や職場に戻った。
 私は妙にすっきりとした気分になって、好きな小説を読んだり、甘い恋物語を書いたりした。
 このフーテン狩りは、いっとき日課のようになっていたが、警察沙汰になったためしはなく、返り討ちに遭ったこともなかった。
 青春の欲望を処理する方法として、ある若者はゲバ棒をふるい、ある若者は無思慮無行動に徹し、またある若者は狩人に変じていたわけである。
 今にして思えば、どれもまことにわかりやすい若者たちであった。
 どうやらあのころ私たちは、社会から供与された自由をわが身にどう活用してよいかわからず、とりあえず学生運動なりフーテンなり暴力少年なりの居心地のよさそうな集団の中に、おのれを帰属させて安定を図っていたらしい。
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 祖父と二人きりで暮らしていた廃屋のような家には、火鉢と炬燵と夜具のほかは何も無かった。
 勉強ばかりしていると、うらなり瓢箪みていになっちまうぜ、と祖父は言い、私の手から鉛筆を取り上げ耳に挟み、火鉢の向こう前に腰をすえて、昔語りを始めた。
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 私の家には「御一新の折には大変な目に遭った」という言い伝えが残るばかりで、その「大変な目」がいったいどういうことだったかは、一切語り継がれていない。
 しかし今に思えば、曽祖父は我が家に起こった出来事を、あたかも他人事のようにさりげなく祖父に伝え、祖父もまた他人事と信じて私に語り聞かせていたのではなかろうかとも疑われるのである。
 はたして悪い記憶は語り継ぐべきなのか、それとも忘れ去るべきなのか、社会にとっても個人の人生にとっても、その判断はまことに難しいところであろう。
 傷痕と教訓とを冷静に選別できるほど、人間は高等な生き物ではない。
 そう思えば、身の不幸をあたかも他人事のごとく語り伝えるという方法は、いかにも明治人らしい巧まざる叡智という気もする。
 祖父は話に詰まると、爪のくろずんだ、粗く節くれ立った指に火箸を握って、適当な言葉が見つかるまでいつまでも火鉢の灰をかきまぜていた。

 その誠実さが、私にはない。






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:江戸残念考


● 2006/02/10



 戦後生まれの私には「チャンバラごっこ」なる遊びに興じた最後の世代であろう。
 プラスチックの玩具が登場する以前の話で、いたいけな子供の遊びとはいえ使用する刀はブリキ製か棒きれであったのだから、今にして思えば危険きわまりなかった。
 そのかわりチャンバラで怪我したという記憶も、人を傷つけた覚えもないのは、子供らが遊び道具の危うさを知っていたからであろう。
 子供の数が多く、親は働くことに懸命で、満足な子育てができなかった次代にはなるほどその子供らにも分別があったらしい。
 私は斬られ役を好んだ。
 悪役にになるのは嫌だったが、役どころの善悪にかかわらず、斬られて死ぬのはチャンバラの醍醐味であった。
 何しろ得物は重量感のあるブリキの刀であるから、袈裟がけにバッサリ斬られると、かなりの醍醐味をもって死の擬態を演じられた。
 この演技がうまくできれば子供からは尊敬され、自ら一場面の主人公として悦に入ることもできた。
 ところが中には、斬られても死のうとしない負けず嫌いの子供がいて、それは一種のルール違反であったから、しばしば揉め事の種となった。
 チャンバラごっこは、いわば集団の即興劇である。
 つまり「斬られたら死ぬ」という約束事があったればこそ、チャンバラは成立する。
 だからそういう負けず嫌いの子供は仲間はずれにされた。
 私は死にざまに自信があった。
 私がいなければチャンバラが始まらぬというほどの人気の秘訣は、ひとえに誰にも真似のできぬ「みごとな死にざま」にあったのだと思う。
 斬られた瞬間、動きを止めて抗うに抗いえぬ心を残し、「む、無念!」もしくは「ざ、残念!」と叫んでどうと倒れるのである。
 演技はともかく、この「残念無念」のセリフは妙に子供らに受けた。
 私が斬られて死ぬ場面はチャンバラの華とされ、そのときだけは全員が斬り合いをやめて、私の死にざまに見とれたほどであった。
 真似る子供もいたけれど「残念無念」のセリフは下手であった。

 そもそも私にこの演技指導をつけてくれたのは祖父である。
 いたずらで祖父の背を斬りつけたとき、「ざ、残念!」と叫んで新でくれた演技が真に迫っており、私は感動の余りその死にざまを教わったのであった。
 私の家には、
 「御一新の折にはひどい苦労をした
という言い伝えだけが残っていた。
 その「ひどい苦労」が具体的にどういうものであったかは知らない。
 言えば愚痴になるという武士の見識から、詳細は伝えられなかったのであろう。
 しかし、明治30年生まれの祖父が、幼いころそのまた祖父から残念無念の「死にざまを伝授」されていたとすると、いわば一家相伝のその迫真の演技も肯ける。
 よその子が真似ようにもうまく真似られなかった理由もわかるような気がする。

 いったいわが父祖がどんな苦労を舐めさせられたのか、「残念無念」のセリフになぜ一家相伝の心がこもっているのか、あれやこれや思いめぐらせているうちに、私の魂は御一新の昔に飛んでしまった。
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 さて、私の魂は紙鳶のごとく江戸の空を飛んで、ようやく書斎へと戻ってきた。
 合理的にわが遺伝子をたどってみれば、私の祖先がさほど恰好のよかろうはずはない。
 だが、想像の中にも身贔屓が働くのは人情である。
 興の趣くまま一気呵成に書き上げた原稿をこれから読み返すのだが「残念」と呟いて机上にふすのかと思うと、これもいささか気鬱にもなる。
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 父や祖父が祖宗の遺言に従って、生涯弓弦を引くがごとく矯めに矯めた「残念」の一言を、いまわのきわみにみごとに射放ったかどうかは知らない。
 私はぜひとも言ってみたいと思うのだが、よくよく考えてみれば、無念にも残念も言う必要のない人生が理想である。
 浅田次郎座衛門の遺言の真意は、おそらくそれであろう。




 「残念!




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:女敵討ち


● 2006/02/10



 なにげなく手にした書物を、その内容にいかんにかかわらず熟読する癖がある。
 書物ばかりでなく、文字を記した印刷物ならばみな同様であるから、朝刊を読むに際しては記事にとりかかる前に、まず折込広告の類から丹念に読まねばならない。
 活字中毒もここまでくると重症である。
 だからこのごろでは、何気なく手にする前に瞬間に読むべきか読まざるべきかという決心を、おのれに強いるようになった。
 過日、母校の卒業生名簿が送られてきた。
 これを手にしまえば半日潰れると思い躊躇したのだが、ついつい読み始めてしまった。
 私は生来、物事の要領を得ぬ。
 要領を得た手順というものを知らぬ。
 だからあらゆる書物において、目的に適う部分だけを抜き読みすることができない。
 すなわち同級生の消息を温ねるにあたっても、あろうことか大正何年卒第一期生の頁から読み始めるのである。
 むろん面白くもなんともないのだけれど、手順なのだから仕方がない。
 いつまでたっても物語の開示されぬ下手くそな長編小説を読むかのごとく、私は分厚い卒業生名簿に没入した。
 話のクライマックス、つまり私の同級生もしくは記憶せる先輩の項目は遥かな先である。
 しかし、何事にも不得要領の功徳というものはある。
 目的地に到達するまでの不毛の荒野を行くうちに、思いもかけぬ景観に出会ったり、貴重な発見をしたりする。
 まさか卒業生名簿にはそれもあるまいと思いきや、まるで見知らぬ墓場をさまようように物故者の氏名ばかりを追い続けるうちに、やはり一つの興味に行き当たった。
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 名前の変遷の面白さに気づいたのである。
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 さらに時代が下がると字面ばかりが派手やかになり、まるで源氏名か芸名をならべたかのようで読むだに気恥ずかしい。
 おそらく全員が名前負けであろうと思われるほど、男子の名は気宇壮大、女子の名は優雅秀麗をきわめ、そのくせ同名が多いというのがまたおかしい。
 かくして、子供の名前に反映された世相に思いを致すうちに、私はふと興味を抱いて、「命名から消えてしまった文字」を検め始めた。
 流行の文字よりも、「死んだ文字」ののほうが世相を映すのではないかと、考えたのである。
 半日どころか一日を要して、私は「死字」を追い求めた。
 第ニ次対戦前には「和」が死に、戦後は「勝」が死ぬ、などという表層的現象はつまらない。
 もっと社会精神の根源に迫るような文字の喪失はあるまいかと、ひたすら数万の姓名をたどり続けた。
 さて、すこぶる長い前置きとなって恐縮であるが、この物語は戦後社会において決定的に喪われたひとつの文字から始まる。

 「貞」

という字である。






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:大手三之門御与力様失踪事件之顛末


● 2006/02/10



 昭和26年生まれの私は、いわば高度成長期の申し子である。
 多少の境遇の差こそあれ、国家の復興と発展をそのまま滋養として育った、まことに幸福な世代であるといえよう。
 しかも都合の良いことに、その発展の過程は質的な向上と拡大に終始しており、努力とは言えぬほど世の流れに身を委ねていれば自然に幸福になるという結構なものであった。
 たとえばテレビや自動車の普及なども、当時は革命的と思えたのだが、いざ手に入れてみれば物質生活の向上と拡大の利器ではあっても、人間の本質を変えるほどの厄介なものではなかった。
 すなわち、戦後からつい先頃まで長く続いた高度成長は、革命という言葉に合致する発明などほとんどない、斬新的な社会発展であり、われわれは享受されるものを健全にしようしてさえいれば幸福であったのである。
 脅威の発明はたくさんあったが、脅威を感ずる発明はなかった、と言えば的を射ているであろう。

 ところが、近年われわれがすこぶる急進的に使用するようになったコンピュータと携帯電話機は、その伝で言うなれば驚異より脅威である。
 これらの普及によって、社会の本質も人間の本質もくつがえったような気がする。
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 携帯電話機は、自由と安全を保障する利器でありながら、同時に個人の自由と安全を殆くするという二面性を持っている。
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 かって父親は、毎朝「行ってきます」と出たら最後、どこで何をしているかわかったものではなかった。
 御幣があるというなら、どこで何をしているかは父親本人の自由意思と良識に委ねられていた。
 すなわち、権利である。
 しかし、携帯電話機を所有してからというもの、この権利は喪われたどころか、家族なり会社なりから連絡があった場合、どこで何をしているか即答しなければならぬという義務まで発生したのである。
 つまるところ伸縮自在の首縄の端を、家庭と会社に握られているようなもので、この姿はどうみても「人間的ではない」。
 ならば自由のために電源を切っておけばよさそうなものであるが、たとえ悪事を働いていなくとも、あらぬ憶測を招き疑惑を抱かれると思えば幽鬼が要る。
 いや、その程度の幽鬼などいわゆる匹夫の勇に如かぬであろうから、それを行うてしまお憂いを残さぬためには、会社からも家庭からも信頼される人格者でなければなるまい。






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お腹召しませ:跋記:浅田次郎


● 2006/02/10



 跋 記

 「五郎治殿御始末」に続く時代劇短編集、いかがだったろうか。
 本書刊行にあたりふと思うところがあって、跋文を記す気になった。
 物語の余韻を損なわねば幸いであるが。
 私は子どものころから、文学が好きで歴史も好きだった。
 だが、ふしぎなことに、この二つの興味を融合した歴史小説は好まなかった。
 自由な物語としての文学様式を愛し、一方では真実の探求という歴史学を好んでいたせいである。
 つまり、小説というのはその奔放な嘘にこそ真骨頂があり、歴史学には嘘は許されないと信じていたから、歴史小説を楽しむことなどできるはずがない。
 小説としてよめばわずかな学術的説明も邪魔に思えてならず、また歴史としてよめばところどころに腹立たしい記述を発見してしまう。
 自分が歴史小説なるものをい書くにあったえ、最も苦慮した点はこれであった。
 嘘と真実とが、歴史小説という器の中でなんら矛盾なく調和していなければならぬ。
 これは奇跡である。
 たとえば、本書の部分からその苦悩の痕跡を引き出してみよう。
 ------
 以上はわかりやすい例であるが、随所にわたってこうした「嘘」を持ち込まねば、多くの読者を納得させる歴史小説は、まず成立不可能であろう。
 私は歴史小説という分野を、「歴史好きの読者の専有物」にはしたくないのである。
 「貴き母国語の司祭たる小説家」は、その記す一句一行に責任を負わねばならぬ。
 全きものをめざすのであれば、時としてし史実にそむくこともありうる。
 本来相容れざる文学と歴史とのいわば不義の子としての歴史小説を、あえて世に問う私の覚悟はこれである。

 幼いころから胸に抱き続けてきた矛盾をどうしてもおざなりにはできず、この覚悟を本書の跋文に記す。

 平成丙戌一月吉日
                              浅田次郎




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2009年2月8日日曜日

:みそひともじの自画像


● 1988/06



☆ かがみには私のなかのまた私 みそひと文字の自画像を描く

● 捨てるかもしれない写真を何枚も 真面目に撮ってる九十九里

 人はなんのために写真を撮るのだろう。
 今でしかありえない今。
 今にしかありえない今。
 つぎつぎと過去になってゆく<今>。
 たったひとつの今でいいから、今のままつかまえたい。
 そんな重いが写真を撮らせているのか。
 けど写真に写った<今>はやっぱりつぎつぎ過去になる。
 色あせた写真の今を、しみじみ思う今がくる。
 色あせた写真の今を、破って捨てる今もある。

● 寄せ返す波のしぐさの優しさに いつ言われてもいいさようなら

● 沈黙ののちの言葉を選びおる 君のためらいを楽しんでおり

● にわか雨を避けて屋台のコップ酒 ひと生きていることのたのしさ

● オクサンと吾を呼ぶ屋台のおばちゃんを前に しばらくオクサンとなる

● ハンバーガーショップの席を立ち上がるように 男を捨ててしまおう

 ハンバーガーには、食べ終えた余韻なんかいらない。
 コーヒーを飲み干したすぐに、トレイを持って立ち上がる。
 いつ立ち上がろうかというきっかけを、考える必要なんかない。
 ダストボックスにきれいさっぱり、投げ入れる。
 自動ドアに立てば、左右に開いてもうそこに、次の日常が待っている。
 そんな風に男を捨てる。
 余韻なんか残したくない。
 きっかけなんて考えない。

● 「30までブラブラするよ」という君の 如何なる風景なのか私は
 
 私は私の今を見ている。
 風景としてある私。
 過ぎゆく風のはるかかなたの遠景としてある私。

● 今日風呂が休みだったということを 話していたい毎日

● ダイレクトメールといえども 我宛のハガキ喜ぶ秋の夕暮れ

 この世のどこかで、私に当てた一枚のハガキが、生まれたっていうこと。
 その一枚が誰かの手で、ポストに入れられたっていうこと。
 郵便屋さんが自転車こいで、私のポストまで、その一枚を届けてくれたっていうこと。
 届いて部屋にあるっていうこと。
 その不思議さを思っている。
 心がしみて、秋の夕暮れ。

● 思いっきりボリュームあげて聴くサザン どれもこれも泣いているような

● きょうまでに私がついた嘘なんて どうでもいいよというような'海

● ため息をどうするわけでもないけれど 少し厚めにハム切ってみる

● 思い出はミックスベジタブルのよう けど解凍してはいけない

 何年何月何日と日付を記して封をする。
 現在(いま)という名の安全地帯があるから、思いっきりふり返る。
 思い出は、思い出すときだけ美しい。

● 地下鉄の出口にたちて今 我を迎える人なきことふいに

● なんとなく冬は心も寒くなる 電話料金増えて木枯らし

● 7・2・3から7・2・4に変わるデジタルの時計を見ながら快速を待つ

 デジタル時計は私の心の独りあそび。
 7・2・3(なにさ)、なにさ、もうまてないよ。
 快速に乗って帰ってしまおう。
 7・3・4(なによ)、なによ、いま何している。
 私と時計のにらめっこ。
 私を笑う一分たちから、逃れるように快速に乗る。







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2009年2月7日土曜日

:立ちどまれ句読点をうつように


● 1988/06



☆ ふりむけば我が青春の遠景に 歌の風吹く海岸の道

 手紙が好きだ。
 なによりも「時間」を運んでくれる。
 
● 書き終えて切手を貼ればたちまちに 返事を待って時流れだす

 手紙は、相手に時間を送りだすと同時に、また自分にも新たな時間をもたらしてくれる。
 <待つ>という時間。
 相手に向かって発した矢印とは逆向きの矢印を持つ時間。
 返事がくるかどうかはということはあまり問題ではない。
 とにかく<待つ>という時間を、気分を、自分の中に手紙がもたらしてくれるということ。
 
 手紙を書いているとき、私は相手の現在を知らない。
 受けとるときの様子もしらない。
 返事を書いてくれるかどうかもわからない。
 一方的な矢印。
 孤独な矢印。
 相手がなくては書けないけれど、返事がなくても書けてしまう。

 手紙を書くということは、その人のことを思う時間を持っているということ。
 その時間を封筒に詰めて送る。
 手紙そのものが、その時間の消印になる。
 
● 出張先の宿より届く絵葉書を 見ておりアリバイ写真のように

 手紙が、いつでも何かの証になるとは思っていない。
 嘘だってつける。
 等身大の自分とは、いつも隔たりがある。
 それは手紙の宿命。
 にもかかわらず、「確かさ」を持っている。


☆ 立ちどまれ句読点をうつように 二十五歳の深呼吸をする

 東京で一人暮らしをはじめて7年。
 ふるさとはあまりに「ふるさと」だ。
 こんなにふるさとらしくしていいんだろうか、と思ってしまうくらいだ。
 ふるさとすぎてこわい----そんな思い抱く。

 だから東京にいる。
 ホームシックのくせに、ふるさとが好きでたまらない。
 好きでたまらないくせに、東京にいる。
 自然のふところで暮らしてきた日本人が、長く、「自然」という言葉を持たなかったように、
 ふるさとに包まれてしまうと、そのとたんにふるさとが見えなくなってしまう、そんな気がするのだ。
 幸せすぎると幸せがあたりまえになる。
 あたたかすぎるとあたたかさに鈍感になってしまう。
 東京には、いろんな人間がいていろんな出会いがある。
 おもしろくて、寂しくて、ものがよく見える。

● 選択肢二つ抱えて大の字になれば 左右対称の我

 左はふるさと、右は東京。
 私の心にはY字型の亀裂がある。
 それが歌を作るエネルギー。
 心はいつも引き裂かれ、ふるさとに帰りたくて、東京で生きてゆきたくて。
☆ そのかみの古人もすなる歌日記 わたしも書いてみる一か月

12月15日(火)
 学校が終わって帝国ホテルへ。
 今日は"ダイアモンド・パーソナリテイ賞"の受賞式
 不安。
 毎年、分野を問わず「ダイヤに負けないぐらいキラキラ輝いた人」を讃えて贈られる賞。
 喜んでお受けした。

 と・こ・ろ・が----である。
 その後あらためて送られてきた「授賞式のご案内」。
 一読して「キャッ」と叫んでしまった。
 <当日は、フォーマル・ウエア(ロングドレス)をお召し下さい> 
 授賞式後のデイナーパーテイで、大使館の方などお見えになるそうで、そこにテレビカメラが入るという。
 <デイナーの後は、フルオーケストラの演奏をお楽しみいただきます>

 ろ・ろ・ろ・ん・ぐ・どれす。 
 
 そんな格好、生まれてこのかたしたことがない。
 た・たいしかん、
 ふ・ふる・おーけすとら。
 胃が痛くなってきた。

 おまけに、副賞の<1カラットのダイヤモンド>、
 というのが、どうやらたいへんなものらしい。
 賞の名前にちなんだ、半分シャレのような副賞なんだろうと思っていた。
 1カラットの「1」というのは、まあサマになる最低の線なんだろうぐらいに考えていた。
 「何、寝ぼけてんの。1カラットってすごいわよ」
 ますます胃が痛くなってくる。
 どうもこれはちょっとやそっとのことではないらしい、
 と気づいたときは遅かった。

1月11日(月)
 今日は「新風賞」の授賞式。
 毎年「新しい構想によって売れ行きを増進し、特色ある企画により読者を開拓した本」に対し、全国の書店さんから贈られる賞だそうである。
 今年は安部譲二さんの「塀の中の懲りない面々」と私の「サラダ記念日」

 学校を終えて、夕方、センチュリーハイアットへ。
 私の「サラダ記念日」の表紙を撮ったときのワンピース。






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よつ葉のエッセイ:幸せすぎて&あとがき:俵万智


● 1998/06



☆ 幸せすぎて
 生まれて初めての本。
 見本を手にしたときは感動のあまりボロボロ泣いてしまって、担当の長田氏を困らせた。
 表紙がついていて、目次があって、奥付には「著者----俵万智」なんて書いてある。
 「定価はカバー・表紙に表示してあります。落丁本、乱丁本はお取替えいたします」----
 うわあ、普通の本? みたい。
 妙な話だが、この部分を見て、私は私の作品がまぎれもなく「本」になったんだということを実感した。
 
 歌集が、一般文芸書などと同じように、本屋さんの店頭に並んでいたらどんなにいいだろう----長い間ずうっとそう思っていた。
 その夢が、幸運なことに自分の歌集で実現した。
 ほんとうに幸せなことだと思う。
 書店で平積みになっている「サラダ記念日」を見るとドキドキしてしまって、そこだけがぼあっと白い光を放っているような感じだ。
 誰かがひょっと手にとったりすると、もう心臓が口から飛び出しそうになる。

 80万部(1987/07)という数字はあまりに大きくて、自分自身にはピンとこないというのが正確なところである。
 「たくさん」という点では、初版の8千部ですでに仰天ものの数字なのだ。
 それが「たくさんたくさん」になり「たくさんたくさんたくさん」になり、今はもうほんとうに数え切れないほどの「たくさん」になっている----。
 私の実感は、そんなぼんやりとした把握でしかない。

 幸せすぎてこわいというのが、私の実感だ。


☆ あとがき
 第一歌集「サラダ記念日」を出してから、
 <なんてことない24歳 >
だった私の日常は、急ににぎやかになった。

 けれどそれは<変わった>ということではなかったと思う。
 なんにも変わってなんかいない。
 広がった----それが私のささやかな実感だ。

 大きく大きく広がった輪の真ん中で、あいかわらず
 <なんてことない25歳>
をやっている。




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ウオーク:インタビュー:高見恭子


● 1990/05



 大人になりすぎちゃうと、なんだかわからない痛みみたいなものが始終つきまとって、それから逃れたい、楽になりたいと、無意識に思うものなのよ。

 人間って、ずうっとずうっと走り続けて、何かになりたいと思ってがんばって、でも何かをつかんでしまったりすると、ぽかんと、どうしようもない空虚に包まれるのよね。
 ある男はアルコールに、違う人は恋に走って行って、どっちも選べない男は、早くから初老になっていく。

 知っているのよ。
 黙ってそうしている時、考えているふうな顔をしているけど、本当は何も考えてないの。
 ただぼんやりしているだけ。
 
 ただぼんやりと、考えるのをやめるのって、本当に気持ちいいのよね。
 すべて停止してしまうみたいに。
 ばんやりぼんやりできるって。

 「趣味は?」
 「そうだな、ぼんやりすること。
 ぼんやりするのが、一番いい。
 このごろすごくじょうずにぼんやりできるようになった。
 人間って、ぼんやりしている間だけ、神様に近づくような気がする」
 「ぼんやりですか-」
 「そうだ」

 テープではほかの質問に答えていた。
 でも、ぼんやりについて語ったような、一瞬、心が開いたような会話は、ほかにはなかった。




 高見恭子をWikipediaで見てみる。

高見 恭子(たかみ きょうこ ) タレント・エッセイスト
 東京都出身:身長170cm
 作家高見順(本名・高間芳雄)と、その愛人小野寺房子(高見順の小説『生命の樹』に登場するホステスのモデル)との非嫡出子として生まれる。
 生まれた時の姓名は小野寺恭子。
 高見順の養女として高間家の籍に入り、高間恭子となる。
 高見順は1965年に病死。
 14歳の時に『MC SISTER』のモデルとして高間恭子の名でデビュー。高校卒業まで高見順の未亡人から養育費を受けて育つ。和光大学中退。
 テレビタレントとして多数の番組に出演。
 その後、藝名を高見恭子に変える。現在、「Cat in the closet」というブランドを立ち上げている。
 最初の結婚は1ヶ月強で破綻したが、1994年に元プロレスラーで現衆議院議員で3歳年下(満年齢としては2歳)の馳浩と再婚し、馳恭子となる。一女の母。』



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2009年2月6日金曜日

本:ぼくのMENU:さだまさし

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● 1978/01



 昭和27年生まれ 長崎市出身
 本名 佐田雅志

《大学校》 
 国学院大学法学部へ入る。
 入ったあと、しまったと思ったが、遅かった。
 2年の時、やめたので、たいしたことはしていない。

《それ以後》 
 アルバイトなどして、音楽の勉強をするが、「歌手」になろうなどとは、夢にも思っていなかった。
 何の因果か、自分の曲を、歌ってくれる人がいなかったので歌う破目になって、偉大なる相棒、吉田政美と共に「グレープ」を結成。
 悪友達の期待をあっさりと裏切り、ヒットするが、やがて解散する。

《それ以後》 
 ファッション・モデルとして再出発し、ワコールの下着のモデルなどやるが、才能に限界を感じ、突如出家する。
 法恵坊陰念(ほうけいぼういんねん)と名乗り、自ら天皇になりたくて兵を挙げるが、マスコミで有名になった藤原純友に破れ、あっさりと僧籍を捨て、作家になる。
 夏日僧籍(なつひそうせき)というペンネームで芥川賞受賞。
 代表作に「むらむら」「先天性阿呆」「君よ憤怒の紐を締めれ!」「ガキドカ」がある。

 現在、「ブラック・ジャック」に影響され、産婦人科の免許を取るべく、アルバイトに余念がないが、
 漠然とした中にも、一種の哲学的境地に至った純粋ないみでの野次馬根性が、
 その好事家としての才覚に一掃の輝きを加え、
 かつまた、その体内エネルギーの蓄積が誘発する意外な発想の元に、
 暫時、己が運命と一直線上に対峙する向上的精神がのぞいており、
 デリカシイあふるる生活姿勢において、
 それを具象的に示唆する作品と呼ばれる「フロック」群での提示が指し示す通り、
 わずかずつであるが、次第に破滅へ進行しているということが出来、
 とりもなおさずそれは自身が無頼派であることを証明する一つの道標といえる。

《賞》 
 昭和42年 東京都生徒児童発明工夫展において、特賞:出品作「安全彫刻刀」
 昭和49年 日本レコード大賞作詞賞受賞 受賞作:「精霊流し」






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