2009年6月2日火曜日

:アザラシとキツネ


● 1980/12



 動物が持ち込まれるのを、私は嬉しく思っていた。
 いきなり金額を書くのははばかられるけれども、理解していただくために記すならば、たとえばアザラシを育てるために、一千万円の倍くらいは消えている。
 すくなからぬ額であり、印税の大半がなくなる年もあった。
 すぐ死んでいくものも多かった。
 傷が治って、戻っていくものには拍手を惜しまなかった。
 それでいいのである。
 あそこへ連れていけばいい、と言う無言の契約がまわりの人と出来たのが何よりうれしいのである。
 この事業は、私の右手が動かなくなる日まで続くだろう。

 アザラシとは、十年間、文字通り血みどろになって苦闘した。
 浜に打ち上げられる孤児が届けられ、半ば死にかけているものを勇気づけ、それから飼育を開始するから大変だった。
 居間で、死ぬものが続出した。
 かわくいい動物が死ぬと、何日かが暗く、もう知るもんかといいたくなった。
 何十頭に一頭という確率ではなく、私は100%に近い飼育法を模索したのであった。
 ミルクを凍らせてみるというのが、革命的な発見だった。
 以来、アザラシは自分でミルクを食べようとし、すくすくと育つようになった。
 
 アザラシの仔が浜に打ち上げられる理由には2つある。
 1つは、育児中、海が時化て親と仔がはぐれるためである。
 仔は乳を貰えず、力尽きて身を波にまかせるしかない。
 1つは、猟師が親を撃つためである。
 私たちはアザラシを海に返すという悲願を、十年目にやっと達成したのであった。













 「このコッコ育つべか」
 「はいはい」
 「親が車にはねられてよ、そのそばにじっと見ていただ。あわれでよ、見るに見かねて拾ってきたけが、おたく、めいわくでねえべか。そのままにしていた方がいかったかなあ」
 「どういたしました」
 「え?」
 「大丈夫です。育ちます。どうも有難うございました」
 野生の仔には、たくさんのダニがついている。
 すぐに風呂に入れてきれいにする。
 抱いたその瞬間の、気合いが大切である。
 両者の呼吸がぴったり合えば、キツネと人は親友になれるのである。

 いやはや、室内でキツネの仔と暮らすのは大変だった。
 いつだってものを片づける係りが要った。
 もしいないと、部屋は足の踏み場もなくなった。
 人間と絶えず一緒にいると、キツネは次第に陽気になる。
 特に「Q」と名づけられたキツネは、例外的に人なつこくなった。
 「しめたぞ。Qを追いかけると、育児の模様が覗けるかもしれないぞ」
 私は希望を持った。
 Qは幸いメスであった。
 居間の教育を終えて、キツネが外へ行ってしまうと、灯が消えたように寂しくなってしまう。
 キツネの世話は、ケンボッキ島の時代からひろ子が担当している。
 これも十年の年期を積んでいる。

 親は子供にたくさんのことを教える。
 なき声にもいく種類かあって、仔ギツネは、親の声にしたがって行動する。
 仔ギツネは警戒心が強くて、うちで生まれても、人の姿を見ると隠れてしまうものだが、Qの仔は違った。
 もともとQは人なつこく陽気な性格を有している。
 Qが人に近づくので、子供たちもおそれないようになった。
 仔ギツネに餌を与えるなんて、3年前には、単なる夢だった。
 空想の中の出来事であった。
 だがQのおかげで、それも可能になって、母と乳が協力して、育児する模様をカメラに収められた。
 いずれキツネの巻として、くわしく紹介したい。
















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