2009年6月26日金曜日

:ぽっくり死ねたらいいね


● 2008/04[1998/10]


「だけど、「姥捨て」なんて言葉がつく「縁起でもないツアー」に、よく婆さんたちが興味をもってくれると思って」
 おれとしては、いまだにそれが不思議でならなかった。

「別に不思議じゃねえよ。
 婆さんたちは姥捨てだからこそ興味をもってくれたんだぜ。
 いつだったか忘れたけど、ポックリ寺ってのが婆さんたちの間で流行ったことがあったじゃねえか。
 あれだって、縁起でもねえ話だぜ。
 婆さんたちがわざわざ、ぽっくり死にてえって拝みにいくんだからよ。
 けど結局、あれとおんなじ心理だってことだろうな」

 婆さんたちにとっては死は身近な問題だ。
 身近な問題だからこそ、深刻に考えれば考えるほど怖くなる。
 そういうとき、人間は死の恐怖をジョークで昇華させようとする。
 たとえば太平洋戦争中、南方の最前線に落語家の慰問団が派遣されたことがあるという。
 死と隣り合わせの兵隊たちに馬鹿な落語なんぞ聞かせてどうなる、という意見もあったらしいが、いざ戦場に赴いた落語家たちが、
「ちょいとご隠居、この際、味方の大将を撃っちまえば突撃しなくてもすむんじゃないかい?」
 といった不謹慎な笑い話を連発したところ、生死の際にいる兵隊さんたちに大うけで、
「あのときほど迫り来る死の恐怖を忘れた瞬間はなかった。
 自分は笑いに救われた」
 と敗戦後、元兵隊たちは回想したものだという。

 もちろん婆さんたちの場合、そこまで切羽詰った死の恐怖と対峙しているわけではない。
 だが、少なくとも死を意識するようになればなるほど、死を相対化したジョークに敏感に反応するようになる。
 どうせシャレだからと笑い転げながらも、無意識のうちに、死の恐怖を希釈しているというわけだ。
 だから、ホックリ寺などというジョークめかした企画に飛びついてしまう。
 地獄めぐりといった観光地が人気なのも、似たような真理からではないだろうか。
「おたがい、ぽっくり死ねたらいいね」
「あたしゃ、いちど地獄に堕ちてみたかったんだ」
 なんた軽口を飛ばして笑いながら、しかし一方では真剣に、「ぽっくり死ねますように」と拝んでいたりする。
 つまりは、戯画的にイベント化された死の世界にわざわざ飛び込むことで、無意識に心の均衡を保とうとしているわけだ。







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