2009年6月7日日曜日

::新境地を得る心


● 2008/02



 武術の進歩は、人間や犬などの哺乳類の身体が大きくなるような、同形の中での成長過程ではないらしい。
 芋虫が蝶になるような「脱皮や変化」---つまり「変態」のような激変をともなった進展なのだ。
 だから、同じ論理や質の中で稽古を積むだけでは、単なる「慣れ」になってしまい、そこそこ有効でも、大きな躍進がない。
 「慣れ」は、積もり積もると「悪癖」にもなりかねない。 
 脱皮を求めるとき、我々は、次に向かうべき新しい自己イメージを予めもっているのだろうか。
 稽古とは新しい領域に挑むことであり、今の自分に100%理解できるような状態に至っても、たかが知れている。
 自分のまだ知らない世界、境地があると認識することが、進歩の大前提だ。

 しかし、全くイメージが沸かない世界や状態へ行こうとしても、手がかりがない。
 師匠の手本を見ても、理解や納得ができなければ、「見れども見えず」になってしまう。
 蝶にとって、サナギの殻へ戻るという選択肢は全くない。
 そのことは誰でも知っているが、いざ自分の成長ということになると、「以前の自分」を、いつまでも残してしまいがちなのだ。
 殻を引きずり、いつまでも飛べない蝶----それは、まさに人がしばしな陥る状態なのである。
 自分はすでに蝶であるのに、それに気づきもしないケースもある。
 周りの人に「飛べ」と言われても、「いや、まだまだです」と言う。
 一見、つつましく謙虚にも思えるが、それは自然の摂理にも反し、不適切といえるだろう。

 とにかく過去の形を潰し、捨て去る。
 それだけで、何かが見え始める場合もあるのだ、と。
 過去や現在を捨てると、すべてがなくなるようで怖い。
 が、捨てることで、自動的に「無」の状態が出来上がり、必要なものが新たに創造されるのだ、と信じればよい。
 「戻る場所はない」
 過去の自分のイメージが壊され、消滅する。
 こうしたことは、実は飛躍的成長の鍵と考えられる。
 できるだけ先手を打って、新しい自分を生み出しておき、そこに「立場がついてくる」ようにしたい。

 しかし、薄々分かっていることを、なかなか実行しないのがまた、人でもある。
 社会の諸問題を見てもあきらかだ。 
 皆、薄々何かおかしいと気づいているし、どうしたらいいかも分かりかけているのに、今の状態を思い切って改めることはしない。
 それは、今の形にそれなりの「うまみ」があるからだろう。

 辻本氏は言う。
 「壁にぶつかったときは、穴のあけ方を師っていることが’大事だ」と。
 小さな穴でもいいし、その向こうへすぐにいけなくてもいい。
 いつできるかは、個人によっても違うのだ。
 いくつの壁を破っても、結局、すごい境地にはたどり着けないかもしれない。
 それでも、穴のあけ方を知っているのが、一番なのだ、と。

 よく古武術の考え方は、「目から鱗」の発想だという。
 実際、そうだと私も思う。
 目からウロコがおちた瞬間を、我々は知ることができるのだが、、一方で、目にウロコが着く瞬間というのは分からない。
 おそらく、放っておけば長年のうちにウロコがどんどん重なり、目が曇るということだろう。
 目が曇り、身が錆びつき、感覚が死んでいる----これは、とり立てて非難すべきことではない。
 そういう部分があって当然なのだ。

 現代人は、大昔、ヒトの身体が形成された時代とはかけ離れた生活を送っている。
 特にデイスクワークなどしていると、座った姿勢でいることが異様に長い。
 生きる感覚が鈍っている。
 素直な目でものを見るとバカにされ、自分の限界を知ることが利口であるかのように教えられる場面も多い。
 そんな時代が続いてきた。

 目からウロコをはがし続けられるような経験や稽古をしよう。
 はがれたら、次のウロコを着けずに、素直な目でものを見、感心してみよう。 
 これだけ古武術が注目されたのは喜ばしいことだが、ある意味、問題も生まれている。
 古武術に関して、新しく固定的なイメージができつつあるようにも思うのだ。










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