2009年6月5日金曜日

:変身願望・海外へ


● 2008/02


 これらから読み取れるのは彼らが持つ”変身願望”だ。
 ”ここでないどこか”に身をさらすことで、何かを掴むことができるという漠然としたもの、それを海外への旅に求めているのだ。
 厳しい言い方をすれば、自分を変えるために何か「具体的な努力をしようとは考えず」に、環境を変えることで自分をかえようとするかれらの心性こそが本書のテーマである「自分探しのたび」だ。

 海外へ向かう”自分探しの旅”は何も今に始まったものではない、という声も聞こえてきそうだ。
 アジア貧困地域、特にインドを目指す類の「自分探しの旅」的なものには系譜がある。
 おそらく原点と言えるのは、小田実のベストセラー『何でも見てやろう』だ。
 これは著者が1958年にフルブライト留学生としてアメリカに渡り、その帰り道として欧州、アジアを旅した模様を綴った旅行記で、1961年に刊行されている。
 小田の世界のユースホステルを巡る旅は「1日1ドル」という」目標で行われた貧乏旅行の類で、バックパッカー旅行のはしりといっていい。
 「何でも見てやろう」という言葉自体も、その時代の若者精神を体現する言葉として流行した。

 1960年代半ば以降になると、ヒッピーたちがこぞってインドやアジアをバックパックを背負って旅行するようになる。
 そんな中から、バックパッカーのバイブルになった『ロンリープラネット』というガイドブックが登場する。
 これはイギリス人の夫婦がロンドンから中東、アジアを通ってオーストラリアへという、ヒッチハイクやバス、鉄道などに乗り継いで行われたたびの行程を記した旅行記で、自費出版の形で1973年に第一弾が発行され、のちにシリーズ化されていく。

 日本語版ロンリープラネットが発売されなかったことで、日本の「自分探し」教祖の一人になることができたのが藤原新也だ。
 1970年、当時無名だった藤原は、グラビア雑誌の『アサヒグラフ』に持ち込んだ企画通り、インドに旅に出かけ、撮った写真と手記を発表意する。
 その「インド発見・100日旅行」「続・インド放浪」という短期連載の旅行記を単行本にしたのは『印度放浪』だ。
 それを機に藤原は、作家・写真家となった。

 これに続いたのが沢木耕太郎だ。
 沢木は1973年にアジアを貧乏旅行したドキメンタリーを、13年後の1986年に『深夜特急』として刊行している。
 この本は今でも若いバックパッカーたちの間でバイブルとして崇められており、前述の『流学日記』の岩本悠もインドの安宿に置かれていたこの本に出会い、明け方まで読み耽ったという。

 2007年に発売された『日本を降りる若者たち』という本には、「自分探しの旅」に出る若者たちの最新の姿が記されている。
 この本の著者は旅行作家の下川祐治だ。
 この本が主に取り上げているのは、「自分探し」の旅でアジアに行った若者が、流れ着く先としてタイのバンコック・カオサンの現状だ。
 カオサンとは日本と正反対の「遊んで暮らしていても、誰も関心を示さない」社会であるという。
 そのぬるい環境に親しんでしまい、居着いてしまう日本人の若者が相当数存在するということを下川は指摘している。
 下川は彼らを自室にこもる「引きこもり」に対して、「外こもり」と呼んでいる。

 語学留学やワーキングホリデイ、海外ボランテイアの経験が、日本での就職に役立つというもくろみが、「外こもり」する前の若者たちにはあったのだろう。
 しかし、企業はそれを「経験」としては受け取らないのだ。
 「自分探しの旅」、それがプラスに査定され、条件のいい職にありつくことができるケースはごくごく稀だろう。
 多少語学ができたところで、フリーター以上の職は見つからず、またお金を貯めては海外に出かけていくということを繰り返し、年をとっていくうちに「遊んで暮らしても、誰も関心を示さない」バンコクに」住み着いてしまう。
 自分を探しに海外に行き、見つけた答えが、もう日本では「まっとうに生活できない自分の経歴」だった、というのでは、あまりに酷だ。








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