2009年6月6日土曜日

:稽古者の心理と型


● 2008/02



 しばしば伝承に携わる人は、自分たちは古いものよく知っている、というつもりになるが、その思い込みに罠があるのかもしれない。
 古いものを大切にするならば、直々の師匠だけでなく、何代も前の先人にまで目を向けるとか、新しい人の研究の中に、古いものを理解するヒントがないか探してみる、というような工夫が必要だろう。

 昔の日本人は、「言葉」とういうものの「意味の受け取り方」が、個人によって違うことをよく知っていた。

 武術の術は、すべて身体の「使い方」から生まれるもので、身体の体重や質量とは、全くといってよいほど関係がない。
 そのことは「剣術使い」「槍の使い手」などという古い言葉にも示されている。
 また、昔の兵法者は、あまり引退などしなかったと考えられるから、まさに術の精度次第ということだろう。

 我々は日常的に、自分の条件的不利を理由にして、やりたいことをあきらめている。
 言い訳のように「できない理由」を並べては、現状にとどまろうとする。
 果てには、何かにチャレンジしようとする他人を見ても「どうせ無理だろう」といったりするようになる。
 だが、やりたいことはやるべきだ。
 もともと、できそうなことだけをやっていては、価値観の転換や、面白い発想とは縁遠い人生になってしまう。
 あるいは、日ごろは自信満々だが、不測の事態にはひどく脆い人間になってしまうかもしれない。
 よく考えてみれば、人は案外、不利なことに挑戦したくなる生き物かもしれないのだ。
 それが成功する例も少なくはない。
 劣等感の中にこそ、オリジナリテーや才能が潜んでいるとも言われるほどだ。
 
 人は、身体のみでなく、性格も様々なので、自分が最も納得ゆくポイントにはまったとき、新しい世界に誘われるのだと思う。

稽古は、何か「うまくなる」ためにやると思っている人も多いけれど、実は、自分の「おかしいところ」を発見するために行うのが本当ではないか、と辻本氏は言う。
 痛い目にあったり、身体を酷使すると、「とてもよく努力した」という満足感があるかもしれない。
 だが、大抵そういう時は、「もともとできる運動」を、ひたすら「たくさん」やっただけで終わってしまいになりがちだ。
 劇的な発見や飛躍は望みにくい。
 あるいは、「辛い思いに耐えたのだから、きっとうまくなって、いい思いもできるはずだ」という期待を生んだりもするが、辛い練習をやめたら不安だから、続けるしかなく、結局は辛いままとなったりする。

 現代人には意外な感覚かもしれないが、古武術では「リズムに乗る」ことをあまり「よし」としない。
 むしろ「拍子を外す」ことが求められる。
 同じリズムの中では、同じ質の運動が繰り返される可能性が高く、しかも、一定になった拍子は敵から読まれ易い。
 あえてリズムをつくる場合には、そのリズムに相手を乗せて、肝心の攻防の瞬間にタイミングを外すことで、拍子を抜けさせ、混乱させるのだ。

 「不測の事態は起きるものだ」という前提が必要だと思う。
 起きたことを後から追うのではなく、まだ起きていないことを察知する、という発想がほしい。
 武術はもともと、この感覚がとても重視されていた。
 型稽古といえども、相手が動く前にそれを見抜くことが必須とされている。










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