2009年6月7日日曜日

::筋肉の「ブレーキ現象」


● 2008/02



 筋肉は、骨を動かすものだと考えられているだろうが、私は運動にブレーキをかけるのもまた筋肉だと感じる。
 意識と関節が解放されていない状態で、無理やりパワーを使って運動しようとすれば、体勢の崩壊を恐れた身体が、自動的にブレーキをかける。
 通常、このブレーキは急激な運動をした際に、怪我や関節へのダメージを防いでくれる安全装置の役目を果たしているのであろう。
 しかし、ブレーキが過剰に働くケースも多い。
 それはまるで、車のアクセルを踏みながら、ブレーキを踏むような状況だ。
 大変な無駄だが、ほとんどの人が、ここに陥っているのではないだろうか。
 だから、まずはアクセルを強く踏む努力より「不要なブレーキを解除する」ことのほうが重要である。。
 昔から、あらゆる運動の世界で「力むな」と教えるのは、このように関節がロックされた、不自由で、力を消耗しやすい身体の状態を脱するためだろう。

 尻を吸収するのも、背骨を真っ直ぐにするのも、力で無理にやっては意味が変わってしまい、効果は期待できない。
 身を伸ばし、不要な力を消せば、自ずと真っ直ぐになる。

 古武術の稽古は、頑張って身体を鍛えるというよりかは、注意深く感覚を研ぎ澄まし、いかに無用の動きを排除するか、という習いだと、私は理解している。
 例えば、刀を真っ直ぐ縦に振り下ろしたい場合、腕の力でで左右のブレを止めようとしても、帰って太刀筋は歪む。
 そうでなく、ただ重力を感じればよいのだ。
 重力は、常に真っ直ぐしたへ働く。
 刀と腕の重みを感じながら、その引きおろされた方向へしたがって剣を打ち下ろせば、ブレることはない。

 肉が骨と一体的に癒着したものであるという意識は、取り除きたい。
 「ブレーキ現象」を生み出しやすいからだ。
 骨と肉とは別々のものであって、関節さえ緩めて解放すれば、骨は自由に動けるのだ----という捉え方が重要だと思う。
 その意識が、筋肉へのブレーキ命令を解く。
 自分が気づきさえすれば、骨の中には非常に細かい意識を受け取ったり、発生させたりする能力がある、と思えてならない。
 骨はただの棒ではないし、筋肉に動かしてもらっている従属物でもない。

 武術の稽古は、いわゆる筋肉トレーニングのように、やっただけ比例的に伸びるのではなく、ある時、急に飛躍的に伸びると言われる。
 それは、この関節の解放、ブレーキ解除の感覚などを掴んだ瞬間にウソのように自由に身体が動くためだと考えられる。
 「コツをつかむ」つまり、「骨をつかむ」 などというが、まさに骨の意識が変わり、自律性を得たときには、驚くほど楽に技が使えるようになるだろう。

 この解放にあたっては、心理的なためらいが壁となる。
 そのために、「恐怖心の自覚と排除」が不可欠だ。
 車のブレーキならば、純粋に車体を止めるためだけに働くだろうが、人間の身体が無意識にかけるブレーキは、「止めている」働きでありながら、実は「力を使っている」状態だ。
 運動を強いられている本人は、まさか「止めている」とは思ってもいないという場合が多い。
 よい汗を流し、よい運動をしたと思い込んでいても、その多くは、自分の身体能力を制限するためのブレーキ運動に過ぎなかった----ということが、実際にあるのだ。
 恐ろしいことだが、何事によらず、この「悲しい消耗」というのは、日常的に様々な場面で私たちが陥るパターンなのである。

 屈筋、表層筋といった固い筋肉によるブレーキ作用について、辻本氏は「ギブスをはめながら動いているようなもの」と言われた。
 筋肉ブレーキを、本当に必要なときだけ適切に働かせられるように工夫することが大切だ。
 動きが荒く怪我の多い人などは、このギブスによるガードを積極的に用いてみるのもよい。













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