2009年4月17日金曜日

:小林よしのり「新・ゴーマニズム宣言」


● 2008/03[****]



 この作品を、果たしてタレント本と呼んでいいものかは疑問だ。
 しかし、著書が、スターであることの知名度に便乗するものとすれば、
小林よしのりは、今や日本のみならず様々な意味合いで「アジアの大スター」である。



 小林氏は、日本の読者にとっては、大ヒットギャグ漫画
 「
東大一直線
 「
おぼっちゃまくん
 の生みの親で、「
よしりん」の愛称で親しまれているギャグ漫画家であるが、その一方では、あの「ゴーマニズム宣言」に端を発し、次々と「右曲がりのダンデイー」な思想漫画をベストセラーとする言論人である。

 それだけではない。
 今や、物議を醸す「新しい歴史教科書」の執筆者の一人であり、台湾体制擁護のマンガ「台湾論」を書きながらも、台湾人口の15%を占める支配層、中国統一派から、台湾入境禁止まで申し渡された
 
国際的要注意人物
であり、最新作「戦争論」では、中国では軍国主義扇動家として「
臭名」と非難されるほどの悪名で呼ばれている、日本人ヒール(悪玉)なのである。

 テレビ界に身を置いていると、
 「小林よしのりの本が面白い」
 「ゴーマニズムを読んでいる」
 と語るのも、ある種の
タブーであり、その話題だけで確実に一癖ある面倒くさいタレントだとおもわれがちだ。
 それどころか、無用な議論、論争に巻き込まれる可能性もある。
 もしかしたら、小林氏の天敵である、テレビ朝日や朝日新聞からは、未来永劫、お仕事の以来がこなくなりそうな危惧さえ感じる(皮肉にも、かってテレビ朝日では「おぼっちゃまくん」が放映されていたくらいなのに-----)。
 
 小林よしのりは、マンガ界の中で、予定調和な物語世界を飛び出し、現実の思想、社会、歴史、政治などの問題に切り込み、「過激すぎる」挑発をくり返し、世間を巻き込み、
 「ゴーマンかましてもよかですか?
 と、大見得を切る。
 語り口はますます激化し、問題作「戦争論」を経た今、もはや退路を断った特攻隊状態である。

 作品に登場する多くの論客は、小林氏を際立たせるためのザコにしか描かれないが、もともと小林よしのりが主人公の物語なのだから、夜郎自大に自画絶賛するのは、このマンガの基本設定である。
 たとえ論壇の中でどれほど叩かれようとも、自らのマンガの中では、プロレスのベビーフェース(善玉)であり、リングの上でヒール(悪玉)と対峙し、四方の観客を意識しつつ、自らのヒーロー性、独善性を見せ続ける役回りなのである。

 かって小林氏はマンガで「坂本弁護士事件」の犯人を追い、オウム真理教を告発し、教団からVXガスで暗殺されかけ、また薬害エイズ訴訟では、書斎を飛び出し国と闘った。
 自ら広げた物語に巻き込まれ、汚名すらを着せながら、さらに、より強大な敵、更なる物語へと無謀にも立ち向かっていく。

 「ゴー宣」も「新・ゴー宣」と装いを変えて、10巻目を超え、「台湾論」「新しい教科書」「戦争論1,2」と、その内容はアジアを巻き込む、国際問題まで飛び火した。
 


 確かに、小林氏はベストセラー作家ではあるが、印税生活での悠々自適、人も羨む気楽な稼業とは程遠い、飛んで火に入る「しんどい」作業の続く、過酷な労働者としかいいようがない。
 しかし、昨今、この戦線が広がれば広がるほど、小林よしのり氏は「語りにくい人」となっている。
 一歩踏み間違えれば泥沼に落ちかねない、イデオロギーの世界。
 小林よしのり氏は、「政治」や「思想」そのものをバランスバーとして鷲づかみし、むしろ平衡をとるより、右寄りに突き差しながらも、この危うい綱渡りを止めようとしない。

 日本人の歴史観を「自虐」と罵りながらも、作品には笑いをちりばめ「自ギャグ」化する、小林氏の「芸」と「技」のある漫画家の力量を認識しているのであろう。
 このように書いていても、俺には、いまだに「小林よしのり論争」に巻き込まれたくない気分があり、”やっかい”を背負いたくないと無意識に防衛本能は働く。
 さらに、論点すべてに諸手をあげて賛成ではない。
 (2001年10月号より)


 その後、小林よしのり氏は、「9・11テロ」を受け、大作「戦争論2」を発表。
 イラク戦争ではアメリカ追従の言論人を批判。
 また昨今、かって火花を散らした論客との共闘なども目立ち、時代の変化を如実に感じさせられる。
 ネットには、「若年層の歴史観を見直させる一方、同時にただ感化されただけの単純なナショナリストを大量に製造することから、「目覚まし時計のベル」(効き目は大きいが、いつまでも聞いているようなものでもない)と、揶揄されることもある。」
 確かに、それも小林氏の功罪の一つであろう。
 されども、「
永遠の長き眠り」の方が、俺には確実に、より惰眠であり、より怠慢だと思えるのだが。



● 東大一直線


● おぼっちゃまくん


 私はこの本にリストされている50冊のうち、一冊も読んだことがない。
 50人の著者のうち、名前を聞いて顔を思い浮かべられるのは、数えてみたら16人しかいない。
 ビートたけしを加えると、51人のうち17人になる。
 ちょうど1/3である。
 さらに言えば、この著者の「浅草キッド・水道橋博士」なる人物も知らない。
 その名さえ今回はじめて聞いた。
 上の16人の著書のうち、その内容を目にした本がある。
 それが「ゴーマニズム宣言」
 雑誌SAPIOを読んでいてその中で、このマンガを見た。
 だが、それも2,3回のこと。
 とりたてて過激だとも思わなかったが。
 といっても、初期のころでさほどでもなかったのかもしれない。
 海外に長く暮らして分かることは、各々の政府とはその国民の利益を目の前に見据えて動いている、ということである。
 当たり前のことだがそれが信条であり、国益ともいわれる。

 靖国神社参拝を中国や韓国が叩くのは、それが国益に叶うからであり、別に正しい歴史認識があるわけではない。
 「正しい歴史」なるものは、もともと存在しない。
 歴史に「正しさ」などはない。
 見る立場でどうにでもなる。
 日本領事館に石を投げ込まれ、それを阻止しようとしない警察官は国に命令されているだけ。
 それをまた受けて、一辺の抗議だけやって問題化しないのは日本の国益にかなうからである。
 「中国や韓国がいかに反日的か」
 をアオり、いかにこれらの国が日本が国是としている民主主義に外れており、法治手段に劣っているか、粗暴なワガママな駄々っ子であるかを国民に知らしめる宣伝に、日本政府が利用しているだけ。
 秩序を知らない連中とやりあってもムダなこと、と国民に訴えかけている。
 日本民族がいかに理性的で品性に富み、平和を好む国民であるかを、ウラモードで宣伝しているということである。

 「内交・外交」とはそういうもの。
 日本の知識人なるものは、その日本政府の外交の掌の上で、本人が知らずのうちに踊らされている、と見たほうが分かりやすい。
 海外から見るとそう見える。
 日本の外交を軟弱とマスコミはアジテートするが、どうしてどうして「日本外交は世界一流」とみても決して間違いではない。
 でなければ、東洋の一片の島国たる日本がこれほどに世界で大きな存在にはならない。 
 日本というコップの中で右往左往するものと、それを外から見るとでは、非常な乖離があるということでもある。

 最近では、あの北朝鮮の「ミサイル発射の誤報」。
 まさにあれほど、「外交的にヒット」したのはあるまい。
 私はおそらく政府上層部が意識的に誤報を操作したのではないかと思っている。
 もし、私が有能な政治家であったなら、この期に乗じて朝飯前に「あのくらいはやりかねない」と思うからである。
 意識的に世界に向かって、こういう問題については「日本は過剰に反応しますよ」、とアピールさせたもの。
 「日本は過剰に反応しますから注意してください」、というメッセージを世界に送ったもの。
 やんわりと、「誤報:ミス」というソフトタッチの形をとって。
 日本は誤報という「恥をさらした」と言った機関があったが、とんでもないこと、外交にはウラがある。
 「誤報:ミス」だから笑い話のニュースとして世界のマスコミが取り上げてくれる。
 ついでに日本のミサイルに対する、過剰な意識を含めて。
 正常動作ならターゲットはミサイルに向けられ、日本の動きの注目度は落ちてくる。
 その「ウラの積み重ね」で世界の仕組みが動いている。
 それ見ずに、目をつぶっていたら、知の満足にドップリ浸った「巨人の愚かしさ」をさらしてしまうことになる。  

 内交とは、すなわち国内行政である。
 もちろんあれは「内交的にもヒット」した。
 まさに壮大な予行演習であり、危機管理のウイーックポイントを検証し、ミサイル問題を大々的に国民の俎上に載せた。
 まったく、「やってくれました」と脱帽してしまうほどのすばらしい政治の手際であった。
 「ちょっと、怖い」ほどの仕上げのよさ。
 チャンスとみたら、とことん利用するといった、国家のエゴイズム。
 それをマトモに出すと嫌われるので、誤報という形に変えて実行してしまう。
 外から見ていると、そのように映る。

 「滅びゆく国家」 どころの騒ぎではない。
 アメリカ発世界同時不況が終焉したとき、やっぱり先頭を走っているのはニッポンということにもなりかねない。
 それも大きな差をつけて。
 「成長」はやめて欲しい、世界の舞台から降りて「成熟」へスタンスを切り替えて欲しい、と心から願うのだが。



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